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伊予市誌

三、寺子屋の教育

 寺子屋の開設 
 江戸時代中期以後、庶民の教育機関として広く普及したのが寺子屋である。寺子屋という言葉は、「寺子」と「屋」の合成語である。寺院の僧侶を師として入門する生徒を「寺子」といい、その入学を「寺入」という。「屋」は寺子の通う家をあらわし、手習いを経営する家を示したものである。
 郡中地方の寺子屋の創始は、灘町の宮内柳庵(桂山と号す)で、その時期は明らかでないがおそらくは一七九〇年代(寛政年間)であろう。その他のものは、天保以降次第に増加したものとみられる。記録に残っている寺子屋は第154表のとおりである。これによると、師匠の身分は、神官・僧侶・庄屋・医師などで、灘町陶惟貞の塾を除いては、その規模も一教師一教室という小規模のものであった。

 陶惟貞の寺子屋 
 陶惟貞の寺子屋は、郡中町灘町の裏手にあって、当地方の代表的なものであった。

 沿革
 文政四、五年頃から教育に従事していた。明治五年の学制頒布によって、山崎学校が開校されたため閉鎖した。その間およそ五〇年、教えた子弟の数は二千人に及んだ。弘化以後の門人録を見ると男女合わせて千人に余った。遠くは下灘村大久保、上灘町高岸、大栄ロ、高野川、南山崎村唐川、大平、原町村麻生等から来ていた。これによってその盛況ぶりを知ることができる。

 塾主
 父は大深屋忠兵衛という彫刻家で、惟貞はその第四子である。初め宮内柳庵に学び、さらに京阪地方を遊歴して学を貫名海屋に受け、のち医を学び帰郷して医を業とした。やがて、これを廃してもっぱら教育に当たった。

 生徒及び教師の数
 普通は男子六〇人、女子四〇人ぐらいであった。多い時は二、三百人にも及んだので、栄養寺の本堂を借りて教授したが、堂にあふれて茶の間まで占領したことがあった。上級生を助手として手伝わせ、時には自分の娘に助教させた。

 入退学
 修業年限は決まっていなかった。入学は普通七歳頃であったが、時々年長の者も入塾した。退学は一二歳ないし一四歳であったが、良家の子弟や学問の好きな者は、一七、八歳ぐらいまで通学した。

 課業時間
 課業は通年制であったが、毎月一日・一五日・祭・節句は休業した。始業は現在の学校と同じ時刻で、「朝習い」といって朝食前に出校し、机を出し墨をすり準備をすることがあった。終業は午後二時または三時ころであった。

 教科目・教科書
 教科目は、習字・読書・珠算の三教科であった。習字はすべて師匠の自筆手本で、いろは・名頭・村名・国つくし・商売往来・諸職往来・世話千字文・四季のおとづれ・消息文・証文・千字文・唐詩選などを習った。読本は習字の手本を多く用いた。その他女子には若みどり・国めぐり・女大学・女小学などを用い、男子で学力が進んでいる者には、四書五経・日本外史・十八史略・実語教・三字経・孝経その他種々の漢籍を用いた。算術はもっぱら珠算で加・減・乗・除を学び、次いで煙草算(一六で割る法)貨幣換算法、米穀換算法のほか諸等数算法を学んだ、教科書は無かった。

 行事
 正月の書初めには、祝儀を包んであいさつに行き師匠の振舞い(赤飯に豆腐汁など)を受けた。たなばた節句には、一〇日ぐらい前から師匠の手本で手習をし、各組々で短ざくに書き、六日の早朝から大ざさにつるし、衣服を改め師匠の家をたずねて師匠の振舞いを受けた。毎月二五日は「一字書」をしたためて師匠の評を受けた。この日は半日休みとした。

 賞罰
 朝遅刻をすると罰掃じを課した。悪いことをするとむちで軽く打たれた。残されて注意を受けることもあった。概して師匠の命令をよくきいたので罰の必要はほとんど無かった。良い子は上席に、悪い子は下席に移した。

 謝礼
 半年ごとに各家庭相応の謝礼をした。その額は一定してなかった。貧しい者は謝礼をしないこともあった。時には貧しい子に対して師匠から筆・紙などの学用品を給与した。
     (『維新前寺子屋手習師匠・郷学校私学校調査』愛媛県立図書館蔵)

 武知五友の塾 
 松山藩の教授をして、伊予郡高柳村や温泉郡三津などに住んでいたが、明治一五年二月に郡中町へ移り住んだ。現在の黒住教会のある所で子弟を教え、生徒数は一五〇人にも及んだ。郡中町付近の教員で、彼の教を受けぬものはほとんど無かったという。当時、塾としていた建物は、教会設立の際移転して、教会裏にあったが、その後とりこわされた。多能で特に書が巧みであった。一八九三(明治二六)年一月七八歳で没した。墓は栄養寺にある。

 宇和宗蔵の塾 
 宇和宗蔵は、文政六年阿波国撫養に生まれ、その地の宝性院の弟子であった。蔓延元年上野に来て上郷に在住し、専心子弟を教育した。学制発布のとき上野村弥光学校に約一〇年間勤務した。退官後は私塾を開いて青年や子弟を指導した。一八八七(明治二〇)年、子弟が浄財並びに建築資材を集め、奉仕作業を行って師匠のために上野本村に家屋を建築した。上野の木曽兼一宅に残されている寄付簿によると、寄付者は、上野はもとより上三谷原組・徳丸・南黒田にも及び、計一〇九人であった。寄付金総額は一七円八六銭、わら二一七束、小麦わら一八八束、縄ニ、〇八九で、奉仕人夫は延ベ一四七・二人役に及んだ。まことにうるわしい師弟の情の発露であった。
 資性は誠実で貧乏も気にしなかった。漢籍はすべてにわたって勉学し、厳格な教育によって、その教化は一郷にひろまり、地方の有志で氏の教育を受けないものは無かった。一九〇四(明治三七)年七月に死去した。その墓は本願寺墓地にある。

第154表 郡中地方寺小屋一覧表

第154表 郡中地方寺小屋一覧表