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伊予市誌

2 小学校教育の統制

 教育勅語・御真影の下付 
 一八九〇(明治二三)年教育勅語発布の翌日、文部大臣は勅語奉承に関する訓示を出し、勅語の謄本を各学校に下賜して勅語奉読の式典をあげ、また、学校の式日や日常教育の場で児童に徹底させることを指令した。愛媛県では、同年一二月から翌一月中に大部分の学校に勅語謄本を送付した。
 この勅語謄本と相前後して、明治天皇・皇后の御真影が下賜された。愛媛県では、明治二三年度から二七年度までに、教員・児童・父母総出の奉迎を受けて、県内各学校に両陛下の御真影が安置された。当地方の学校に対する下賜日は、北山崎尋常小学校が一八九三(明治二六)年二月一一日、郡中尋常小学校が同年一一月、伊予尋常小学校が一九〇〇(明治三三)年四月一八日であった。
 御真影奉迎の様子を、北山崎小学校の『沿革誌』には次のように記載している。

   御真影奉迎 二月十一日午前八時三、四学年男生国旗ヲ掲ゲ、隊伍整々郡役所二赴ク、同九時一、二学年生并ニ三、四学年女生出門、三島町下入ロニテ奉迎シ、御通行ノ際ハ真ツ先ニ校旗、次ニ国旗ニ旒、次ニ生徒并二校長先駆ヲナシ、護衛トシテ生徒及ビ郡書記村吏有志者、及ビ本校卒業生都合百五拾名御真影ノ前後ニ扈従ス、而シテ村長ハ終始御真影ヲ奉持ス、御真影校門ニ着スルヤ四学年生君が代三唱、次ニ玉座へ定置、次ニ一同式ノ如ク最敬礼、暫時休憩ノ後拝賀式ヲ挙行ス、終リテ生徒一同ニ菓子ヲ与フ、

 県は一八九五(明治二八)年二月、「御真影並勅語謄本取扱規程」を布達して、御真影は額面として堅固な白木の箱に納めることなどの具体的な取り扱い方法を定めた。各学校では紀元節、天長節、元旦の三大節及び入学式には、君が代斉唱、勅語奉読、御真影拝礼などを含めて式次第が決められた。

 明治三三年の小学校令 
 一八九〇(明治二三)年の小学校令は我が国の初等教育の基礎を確立したが、それ以後における社会情勢の変化、とりわけ日清戦争の勝利による国運の進展に伴って生じた教育振興の気運によって、一九〇〇(明治三三)年八月に、新しい「小学校令」が制定された。改定の重要な点は尋常小学校の年限を四年に統一したこと、なるべく二年制の高等小学校を尋常小学校に併置させ、将来の義務教育年限の延長に備えたこと、義務教育において授業料を徴収しないことを原則としたことなどであった。なお、この実施に関して「小学校令施行細則」で、詳細な部分まで規定したために、府県知事の権限は著しく縮小されて、小学校教育は画一化され統制された。

 戦時教育留意事項の指令 
 一九〇四(明治三七)年、一九〇五(明治三八)年の日露戦争は、我が国運を賭しての戦いであり、教育界もまた戦時色に塗りつぶされた。当時、愛媛県知事は、「日露交戦に付生徒教育心得」を発し、各学校では生徒に対して、義勇奉公の趣旨を貫徹し、従軍兵士の家族及び遺族を慰問することや、質素倹約の気風を醸成して、非常時に処する心得を認識させるように訓令した。この指令を受けて県内の各郡長は、これを具体化した戦時教育留意事項を集会などで教員に示した。こうして教員を仲立ちとして、児童はもとより校下の民衆に対しても、戦争教育を徹底させる体制がしかれた。郡中小学校では、経費節約などのために、尋常科の一、二学年で二部教授が四年間行われた。

 義務教育年限の延長 
 日露戦争に勝利を博した結果、我が国の国際的地位が急速に向上したので、多年懸案とされていた、義務教育年限延長の気運がようやく熟して来た。これに応じて、政府は一九〇七(明治四〇)年三月一日に小学校令を改め、尋常小学校の修業年限を二か年延長して六か年とし、これを義務制として一九〇八(明治四一)年から実施することにした。そして六か年の尋常小学校で初等教育を終わると、それ以後は各種の上級学校に進学するという我が国の学校制度ができた。これは一九四一(昭和一六)年の春まで、なんら変わることなく、三〇年以上続けられてきた。なお、高等小学校の修業年限は二か年を原則とし、場合によっては三か年とすることができた。

 戊申詔書の発布 
 日露戦争の勝利は、我が国民の民族的自負心をかきたて、国家主義の思想がいっそう強化された。しかし、戦後の社会は人々が戦勝に酔い、軽佻浮薄な風潮に流れる傾向にあった。一九〇八(明治四一)年一〇月一三日、「戊申詔書」が発布されて人心の浮薄と怠慢を戒め、綱紀を粛正して、国運の発展をはかるように強調された。文部省はその趣旨を教育に生かすよう指示した。愛媛県では安藤知事の訓示によって郡長からの伝達などにより、県内各学校では、この詔書を訓育面に活用する方法を講じた。