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伊予市誌

1 小学校教育の変化

 経済恐慌と教育 
 第一次世界大戦の余波を受けての経済界の好景気は、大戦終結後不景気の波と変わり、一九二九、一九三〇(昭和四、五)年ごろの米価は一俵六円となり、町村財政に行きづまりを生じて来た。
 県は経済恐慌によって生じた貧困児童に対して、教科書、学用品、被服、食料その他生活費の一部又は全部を支弁し給与することにした。

 個性教育と郷土教育の展開 
 文部省の方針に基づいて、愛媛県は一九二八(昭和三)年に個性尊重と職業指導について、中等学校及び小学校に訓令した。その後、各地で個性教育に関する実践研究が行われ、一九二九(昭和四)年愛媛師範学校で開かれた第九回愛媛教育研究大会は、個性教育一色で塗りつぶされた感があった。このとき郡中小学校訓導菊澤薫が「個性調査の実際案」について研究発表を行った。
 これより先、一九二七(昭和二)年に師範学校代用付属余土小学校で開かれた第七回愛媛教育研究大会は、郷土教育の研究を主題として開かれた。その後、県下の小学校では郷土教育の研究が盛んになってきた。研究の方向としては、①各教科における郷土化の研究、②教科として郷土科の特設研究、③郷土そのものの実際的研究であった。

 郷土読本の編集 
 伊予郡では、一九三〇(昭和五)年三月、愛媛県教育会伊予部会(部会長澤両東四郎)の名で、松本小学校長岡本藤枝を中心として『伊予部会研究集録巻一』を発刊した。これは当時の郷土教育の重要な資料として活用された。続いて巻二、巻三が刊行された。
 一九三三(昭和八)年一〇月、岡本校長らの編集で『郷土読本』を刊行し、更に翌年に同教授書が刊行された。郷土読本は四巻をもってなり、郡内各学校では巻一を尋常五年生に、以下は高等科二年まで各学年にこれを割り当てて採用し、郷土読本学習の時間を特設した。
 内容は、巻一を例にとってみると、伊予郡、義農作兵衛の歌、衛門三郎、養蚕業、郡中、和霊神社、藤樹先生の幼年時代、亥の子、おたたさん、端の左衛門、お手玉うた、谷上さん、節分、新田神社、星の岡の戦と、地理・歴史・民俗・伝説と多岐にわたり、巻頭に口絵写真、付録に統計、付図に伊予郡地質図と伊予国旧藩領土図があった。問題点としては、その内容が学年の教材とあまり関係なしに配置され、その表現が各巻ほとんど大差なく、尋常科の児童には難解であった。
 しかし、この読本が当時のこの地方の郷土教育振興に果たした役割は大きく、岡本藤枝ら編集委員のこれに対するなみなみならぬ意欲とその成果は、明治時代末期の各町村郷土誌の編集とともに、後世に残る偉大な業績といえよう。

 国家主義的な教育 
 一九三〇(昭和五)年に柳条溝事件に端を発してぼっ発した満州事変以来、戦争の影響は次第に教育にも現れ始め、教育は国家主義的・軍国主義的傾向を強めていった。