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伊予市誌

5 婦人団体の強化

 国防婦人の会の活動 
 国防婦人会の報国運動はめざましく、日中戦争が始まってほぼ二か月後、在中国皇軍慰問袋運動は、多大の効果をあげ、またたくまに一万個の慰問袋集めに成功した。国防婦人会には組織の最下部単位として班をおいたが、郡中町では、国防婦人会郡中町分会検番班が発足(二七人の芸者で結成)して石けん、タオル、封筒を売って歩き、総額一六〇円の利益金を献金した。
 一九三七(昭和一二)年には、県国防婦人会代表として、新居浜支部長松本幾代と宇摩郡支部長前谷セツ子と、伊予郡支部長木下光代の三人によって、在中国軍隊の慰問が行われた。

 地域婦人会の活動 
 地域婦人会は、郡市連合会、愛媛県連合会を結成し、戦争下特に重要なる家庭教育と生活の刷新を指標として、鋭意実践運動を展開した。その一例として、一九三九(昭和一四)年における郡中村婦人会(会長武智光子)の申し合わせの一部を次に掲げる。

  私ドモ郡中村婦人会員ハ我国未曾有ノ事変ニ処シ益々国家ノ興隆ヲ計ル為メ次ノ事項ヲ実行シマス。
  一 私共ハ如何ナル銀難ニ遭遇スルコトガアラウトモ決シテ弱音ヲハキマスマイ。一致協力、敢然トシテ聖戦ノ目的達成二努メ銃後ノ護リヲ完全二致シマセウ。
  二 物資ヲ大切ニシ質素勤勉以テ貯蓄報国ノ実ヲアゲマセウ。(以下略)
                  (『郡中小学校保存文書』による)

 婦人団体の統合 
 国防婦人会、愛国婦人会、連合婦人会、各種婦人団体がばらばらでは婦人報国の実は期待できないと、各団体の統合構想が打ち出され、一九四二(昭和一七)年二月二日、総理大臣束条英機臨席のもとに大日本婦人会が発足した。同年三月一五日、愛媛県支部が発足し、三月二二日に伊予郡婦人会が、次いで四月に各町村婦人会が結成された。
 大日本婦人会県支部は、一九四四(昭和一九)年一〇月から総決起運動を起こした。竹やり・バケツリレーなどの国防訓練、必勝祈願祭、決戦食の講習会などには、白はちまきにモンペ姿もりりしく、日婦会員のおかあさんたちがひとり残らず参加した。敗戦直後の一九四五(昭和二〇)年六月、大日本婦人会は発展的に解消し、国民義勇隊へ組み入れられたままついに終戦となった(愛媛新聞社「愛媛の女性百年」)。