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伊予市誌

1 戦後の義務教育

 敗戦後の国民学校 
 敗戦の結果は国民に生活の窮乏と精神的虚脱状態をもたらした。教育もしばらく空白と混迷の状態を続けた。一九四五(昭和二〇)年九月から国民学校の授業が再開され文部省は九月一五日「新日本建設の教育方針」を発表し、戦後の新しい教育の方向を示した。すなわち、戦時教育を一掃して、平時体制への転換を図って教科書から戦時教材や超国家主義的教材などを省略削除するようにとの通達であった。
 連合軍司令部は、更に、根本的な改革を求める指令を出した。この指令に基づいて、国民学校では修身・国史・地理の授業は直ちに停止されたが、国語・算数などでは教科書から戦時教材を切り取ったり、墨を塗ったりした。翌年地理と国史の授業再開が許可されたが、修身は許可されなかった。学校の奉安殿は取り除かれ、御真影及び教育勅語は、一九四七(昭和二二)年八月に返還された。まことに大きな歴史の転換であった。当時の学用品はノートさえなくて、大福帳やその他の書類の裏面をつづって利用した。

 六・三制の実施 
 一九四六(昭和二一)年三月に来日した「米国教育使節団」の勧告に基づいて、一九四七(昭和二二)年四月に学制が改革され、六・三・三・四の学校体系の中で、小学校六年・中学校三年の義務教育制度が成立した。新制小学校は義務教育であった旧国民学校初等科がそのまま継承された。
 新制中学校は国民学校高等科を主要な母体とし、更に青年学校を合わせて全日制、男女共学を原則とした。校舎は独立校舎とするように「計画基準要領」で示された。一九四七(昭和二二)年四月に発足した当地方の新制中学校は第173表のようであった。なおこのほかに、県立伊予農業学校に併設中学校があった。

 新制中学校の校舎 
 新制中学校は、発足したものの、独立校舎の建築はなかなかにほかどらず、町村の悩みの種であった。
 南山崎中学校は、当初南山崎小学校の教室を利用していたが、一九四八(昭和二三)年一二月、東二教室並びに控室を建築した。一九五二(昭和二七)年五月に新築校舎の落成式が行われた。
 北山崎中学校も当初北山崎小学校の教室を使っていたが、一九四七(昭和二二)年一二月、本村出身で当時九州に在住していた大元市太郎の寄付によって、中学校校舎が建築された。教室は五教室であったが、個人の寄付で校舎建築というのは特異なケースであった。以後五年を経過して、一九五二(昭和二七)年五月に木造二階建て校舎延べ二六六・七坪が工費五六六万四、二八四円で落成した。続いて一九五四(昭和二九)年一月延べ二六一・二坪が工費五二九万円で増築され、やっと理科・工作・音楽・図画の特別教室を含む施設が整備された。
 郡中中学校は、発足当時一年生は郡中旭小学校、二・三年生は郡中東小学校を用い、本部を東小学校に置いた。一九四七(昭和二二)年八月、郡中旭・郡中車両小学校を統合して旧郡中東小学校校舎を新郡中小学校とし、旧郡中旭小学校校舎を郡中中学校校舎に当てた。しかし、小学校一年生全部と二年生の一学級は、郡中中学校内の教室を用いたので、中学校は教室が不足し、講堂を三つに仕切って教室に充当した。一九四八(昭和二三)年に郡中小、郡中中それぞれ新校舎が落成してやっと常態に復した。
 伊予中学校は、北伊予中学校と統合し、敷地は草田池にとの案もあったが実現しなかった。一九五〇(昭和二五)年にやっと二階建て校舎及び玄関平屋建て校合が落成し、一九五二(昭和二七)年に至って特別教室平屋建て校舎ができた。
 このように郡中中学校を除いては、どの町村も中学校の施設整備に期間がかかり、どうにか校舎は整備されたが、運動場は小学校と共同使用という状態であった。

 教育の転換 
終戦後の教育は大変な混迷の中にあった。戦争中の皇国精神は民主主義に置きかえられ、教師は教育に対する自信を失った。新しくできた社会科や自由研究、小学校の家庭科はもとより、ガリ版ずりに等しい教科書で、指導の方針は立っておらず指導内容も明らかでなく、指導方法もまた確立しないままの状態がしばらく続いた。
 しかし、こうした不安定の状態も社会の落ち着きとともに、次第に安定の方向に進んでいった。従来の教師中心の注入教育から児童生徒中心の自主学習に、教科書中心の主知主義の教育から経験を重んじた生活中心主義の教育へと移行した。こうした新しい教育では調査・見学・討議・発表など児童生徒の活動が重視された。新教育はこれまでの学習とくらべ、児童生徒の基礎学力が低下したという批判もあったが、当地方の学校では、児童生徒の自発的学習と集団的学習とをかみあわせ、新教育の実をあげようとする真剣な努力が行われた。

 新教育の研究 
 一九四七(昭和二二)年四月新教育の充実向上の使命をもって、各郡市に小中学校それぞれ一校の実験学校が指定された。伊予郡では伊予小学校(校長伊賀上一三)と南山崎中学校(校長仲田登高)が当てられた。両実験学校は、新教育の充実向上のため実験的にカリキュラムをつくりこれを実践化し、しばしば研究会を公開して郡内各学校の推進的役割を果たした。他の学校でも教育研究はさかんに行われた。

 教育表彰 
 伊予市内各小中学校は、教科研究はもとより、児童生徒のコンクール、その他各種の部門で優秀な実績を示し、文部省などの表彰を受けている。その主なものをあげると第174表のとおりである。

 体育大会出場成績、 健康優良児表彰 
 県及び四国の体育大会で優秀な成績を示した者並びに、健康優良児として表彰を受けた者は第175表・第176表のとおりで、この面でも、伊予市の学校は、優秀な成果をあげている。

 特殊学級の開設 
 普通教育における義務制は強化され就学率は向上したが、その反面一斉授業の中で、精神薄弱児たちはこれについていけなかった。国は昭和三二年度から特殊学級施設設備費の補助を行い、市町村の人口規模に応じて、最低必要な学級数の設置基準を設けて、特殊学級の拡充を図った。一九五八(昭和三三)年に県内有数の大規模校である郡中小学校(校長北橋吉郎)は、特殊学級を同年八月二六日から開設した。当時この学級に対する一般の認識が浅かった時代に、これに踏み切ったのは校長をはじめ関係者の英断であった。一九五九(昭和三四)年四月、県教育委員会は「普通学校における特殊教育の推進について」の通知を出し、特殊学級の充実を図り、その体制を整えることに努めた。伊予市教育委員会においても、これが開設に努力し、昭和三四年度郡中中学校、昭和三六年度伊予小学校、昭和三九年度伊予中学校、昭和四〇年度北山崎小学校と順次に設置した。

第173表 郡中地方の新制中学校

第173表 郡中地方の新制中学校


第174表 学校表彰の状況 1

第174表 学校表彰の状況 1


第174表 学校表彰の状況 2

第174表 学校表彰の状況 2


第175表 体育大会出場成績

第175表 体育大会出場成績


第176表 健康有料児表彰

第176表 健康有料児表彰