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伊予市誌

六、創価学会

 一九二八(昭和三)年、日蓮仏法に帰依した牧口常三郎(初代会長)と戸田甚一(城聖、第二代会長)が一九三〇(昭和五)年、創価教育学会を創設し、東京で同会の正式発会式をあげたのが創価学会のはじめである。一九四一(昭和一六)年には会員が三、〇〇〇人以上に増加したが、その翌年から政府の弾圧が始まり、一九四三(昭和一八)年には、牧口・戸田らが神宮大麻を受けることを拒否したということなどで投獄された。牧口は一九四四(昭和一九)年獄死し、戸田は一九四五(昭和二〇)年に出獄。早速学会の再建に立ち上がり、翌年一月一日から法華経講義を始めた。本会は「生活即信心」の理念のもとに座談会・教学の学習・折伏を布教活動の三本の柱としてきたが、一九五一(昭和二六)年の年末には全国で一二支部(五、七二八世帯)に達した。その後、戸田の跡を受けた池田大作(第三代会長)の下で世界各国へ広がり、二〇〇二(平成一四)年時点でせ界一八五か国、公称八二一万世帯となっている。
 当地方でも一九五五(昭和三〇)年ごろから次第に入会者がふえ始め、一九六〇(昭和三五)年には松山支部が結成され、一九六七(昭和四二)年には県下に三本部ができた。また、一九六三(昭和三八)年の松山会館の落成以来、愛媛文化会館(一九七七(昭和五二)年落成、現松山文化会館)などの施設が相次いででき、現在は県下に一二会館を擁している。
 当市でも会員は九〇〇世帯に及び、現在、伊予本部の下に六つの支部、更に一五の地区が置かれている。それぞれ地区別の教学学習会、ブロック座談会を毎月開くなど、活発な活動を続けている。