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伊予市誌

一五、三十三の観音さま (森)

 今から一三〇年ほど前の明治時代の初めごろ、森に恐ろしい赤痢が大流行して、次々と命を失うものがでた。そこで、村の人たちは心配して、「どうしたらよいか」と集まって、相談した。その結果、
「これは、何かのたたりにちがいないから、祈祷師(神や仏に祈って、原因をお伺いする人)によく見てもらおう。」
ということになった。そこで、ある祈祷師に頼んで、占ってもらうと、
「これは過去によくない因縁(原因)を作っているから、神仏をよくまつることが大事だ。」
と、言ってくれた。
「それでは、どんな神仏を祭ったらよかろうか。」
と、また相談して、
「人びとをやさしく救ってくださる観音さまが一番よかろう。」
ということになった。このころ上灘によい石工がいたので、この人に頼んで西国三十三か所の観音さまを彫ってもらうことにした。
 ようやく出来上がったので、船で運ぶことにして、森の網元であった庄屋に頼んでみたが、
「漁船等で運ぶのはどうもおそれ多い。」
と言って断わられた。しかし、田中という漁師がみんなが困っているのを見て、船をきれいに洗い清めて運んでくれた。その後、この人の網には、たくさんの魚がかかるようになったという。
 さて、森に運ばれてきた三三の観音像は、「どこへ祭ろうか。」とまよったが、これもまた、西国三十三か所の札所(お参りしたしるしに札を納める寺)にちなんで、森山の三十三か所へ据えようということになり、森の山・谷・野で適当な所三十三を選んで据え、村人たちが盛大に祭ったので、あれほどひどかった赤痢もまったくなくなった。
 その後、明治時代から昭和時代の初めころまでは、大門寺の観音祭の日に合わせて、毎年四月一七日に、森の人々がみんなで連れ立って、山や谷を越えてお参りに回ることにしたので、大いににぎわったという。ところが、昭和二〇年の終戦後はいつの間にか、この札所参りもさびれてきたが、最近、これではいけないと、森の老人会の人達が四月一七日になると三十三の札所を回って掃除し、香花を供えてお参りすることにした。また、昔のにぎやかさにもどることだろう。