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伊予市誌

三四、薄井の大師堂 (下三谷)

 昔、下三谷の薄井には、たいへん広い竹やぶがあり、農家が一四、五軒ほどあった。今、この部落の真ん中には、きれいな顔のお大師様を祭ったお堂が建っている。これが、いつごろ建てられたのかはっきりしないが、昔は、北向きになっていたという。このお堂の前を、一筋の街道が通っていた。昔のことだから、道は狭かったが、村と村をつなぐ大事な道で、よく馬が荷を背に積んで運んでいた。
 あるとき、お堂の前を通りかかった馬が、どうしたことか、急に動かなくなってしまった。今まで元気に歩いていたのに、急に動かなくなったものであるから、これを引いていた馬方は、あわてて叱りつけたり、なだめたり、尻をたたいたり、□綱を引っぱったりしたが、いっかな動こうとしない。馬方は、とうとう腹を立てて、大声でどなりつけ、ひどく尻をぶったりするものだから、部落の人たちは、みんな家から飛び出してきた。
「あのおとなしい馬が動かんのは、どがいしたことだろう。」
「これは、お大師さんの前で、馬がくそをたれるんで、お大師さんがたまらんようになって、馬を動けんようにしたんとちがうか。」
「どうぞせにゃならん。目の前でくそをたれられたんじゃ、腹立てなさるんも、もっともじゃ。」
「いっそお堂の向き、変えたらどうじゃろか。」
集まった村人は、いろいろ話し合った末、お堂の向きを変えて、道を背にするように建て直したそうである。
 昔は、四国八十八か所の寺々を巡拝する人や、金比羅さんにお参りに行く人たちが多かったから、そうした人びとの一夜の宿に、このお堂が使われることもたびたびあった。
 今から七〇年前の、一九三五(昭和一〇)年ごろ、薄井の村人たちの手で、今のお堂が新築された。その後、太平洋戦争などで、このお堂は住宅になったり、終戦後の農地改革で、危うく敷地が人の手に渡ろうとしたりしたこともあった。しかし、村の人たちの信心によって、今もそのまま、ここに残っている。
 昔からの行事は、今もなお続き、毎年三月、八月、一二月のそれぞれ二〇日の日が、お念仏の日になっている。この日は、日暮れになると薄井中の人びとが集まって、灯をともし、にぎやかにお念仏を唱えて、なごやかな一夜をすごしているという。このように、身近な場所に、お大師様をお祭りすることは、村人にとって、何よりも大きな心の支えと、安らぎになるのであろう。