データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

3 主要遺跡と遺物

 弥生時代の生活の中心は水稲耕作であったが、水利の悪い土地は畑としてアワ・ヒエ・ムギなどの雑穀や野菜を栽培し、また、樹木作物であるクリ、モモ、ウメなどの栽培も盛んに行っていた。春から夏にかけては海や河川での漁撈や貝類の採取、秋から冬にかけては狩猟も盛んに行われていたことが、出土する遺物からうかがえる。
 次に、伊予市内の主要な遺跡を時期別に分けて概観してみたい。この当時のムラの境界線がどこにあったかは不明であるので、近接する周辺の遺跡を含めたい。

 (1) 前期遺跡
 四国で弥生文化がいち早く開花したのは松山平野南部であることは既に触れたが、現在までに判明しているのは、前期初頭では下三谷仲組や北組、松本新池、横田遺跡で、遠賀川系の土器が出土している。これに続くのが片山遺跡であり、三・五×三・五mの隅丸方形の小型竪穴住居跡が発見されている。住居跡内から木葉文をもつ土器が出土したといわれているので、このころになると、北九州地方だけでなく畿内系の文化の伝播が考えられる。出作宝剣田遺跡からは北九州地方以外に出土例のない支石墓と有柄式磨製石剣が出土している。これらは北九州地方との結びつきを示すものである。宮下東谷や寺山、砥部町田ノ浦からも有柄式磨製石剣が出土しているので、支石墓が分布していたのかも知れない。当然、これらの近くの低地に人々のムラが形成されていたと想定してよかろう。
 弥生前斯後半になると、山麓台地にも遺跡が分布するようになる。それが八倉篠原廃寺跡や宮ノ北、土井池遺跡などである。

 (2) 中期遺跡
 中期前半の遺跡はあまり発見されていないので、不明な点が多い。中期中葉になると大谷川沿いの低地の平松に遺跡が分布するようになる。平松遺跡からは東九州の前期後半の土器や、阿方系の土器が出土している。
 中期後半になると、山麓台地上まで水田化され、稲荷から上三谷、上野、宮下一帯に広範囲に遺跡が分布するが、上野向山や長尾(なご)Ⅱ遺跡の一部が調査されただけで、そのほとんどが未調査である。代表的な遺跡としては、宮下Ⅰ・Ⅱ、雨ケ森、伊曽能、八倉西組、総津池、宮下新池、長尾、向山、猿ケ谷、原南、春戸口、上三谷神社、八幡池、稲荷遺跡などかある。これらの遺跡からは、共通して凹線文土器が出土しており、瀬戸内海沿岸、特に瀬戸内海西部を中心とする文化圏が想定されている。住居跡はほとんどが円形プランの竪穴住居跡となっている。

 (3) 後期遺跡
 後期になると、山麓や洪積台地上のみならず低地の前期遺跡に再び集落が形成されるようになる。その代表例が横田や片山、太郎丸、平松などの遺跡である。また、西原や宮下新池、土井池、上野松本、八反地、古泉、中村、森本村などにも遺跡が分布している。このころになると、ムラを大きな溝で取り囲む環濠集落が発生するようになる。その一例が太郎丸や横田遺跡などで検出した幅四m、深さ二mの大溝遺構であり、その方向は北北東を指し、現在の地割りとは大きく異なっている。おそらく、この大溝はムラを守る防禦を目的としたものと見られる。北替地、太郎丸、片山、横田を中心とした地域に大溝を設けて防禦しなければならないようなムラが存在していたのかも知れない。
 横田Ⅱ区では西の片山に向かって流れる川幅六m、深さ一・五mの川床に石を敷き詰めて、河川の浸食を防ぎ、河川の分岐点や水田への水口部分に「しがらみ」を構築して、河水統制を行っていた。現在の河川は松前町横田と伊予市片山の境界線を南から北に向かって流れており、時代によって河川の流路方向が違っていたことがわかる。片山や横田のように湧水に恵まれた低地においても、用水確保のため、高度な河川管理が行われていたことから、水の不足する台地上ではより高度な土木技術を駆使した用水確保の努力が行われていたと見るべきであろう。

 (4) 主要遺物
 弥生時代は青銅器や鉄器が使用された時代であるが、金属器のうちの青銅器は、銅鏃などを除いてそのほとんどが祭器として使用され、武器や農工具には鉄が使用された。鉄は朝鮮半島からの輸入品であるため、高価で、すぐに石器にとって代わるということはできなかった。松山平野で鉄器が盛んに使用されはじめたのは、弥生後期になってからであり、農工具の大半は縄文時代と同じように石器を使用していた。石器とともに多く使用していたものに木器があるが、これらは腐食するため、低湿地以外から発見されることはまれであり、現在までのところ伊予市内では未発見である。

  ① 狩猟用道具
 平松遺跡では石鏃が多く出土しているが、これは弥生中期においても弓矢による狩猟が盛んに行われていたことを証明している。弥生前期から中期後半ころまでは、サヌカイトの石鏃が大半を占めていたが、一部で赤色珪質岩や赤色チャートも使用されている。石槍の出土はないので、投げ槍による狩猟は姿を消していたのであろう。ただ、伊予市内では調査例が少ないため、どのような鳥類や動物を獲物としたのかは不明である。

  ② 農耕用具と生活用具
 伊予市内では農耕用の鉄器は発見されていないが、隣接する砥部町や松山市南部の例からすると、使用されていたと見てよかろう。農耕用道具を代表する石器は、石鍬や石庖丁、石鎌である。石庖丁は弥生前期の片山や横田遺跡からも出土しており、前期から中期・後期にかけて、緑色片岩の磨製石庖丁が多く使用されている。水稲耕作の不可能な行道山遺跡や山麓の遺跡からも多く出土している。
 中期後半になると、稲作が盛んになったため、石庖丁は研磨という手段を省き、長円形の偏平な海石や川石の両端を打ち欠き、両面から叩いて簡単な刃部を付けただけの打製石庖丁が出現する。これは大量生産が必要となり、かつ、省力化を目的としたからであろう。石包丁は高縄半島周辺から東は、香川県のサヌカイトを使用しているが、伊予市を中心とする松山平野は、そのほとんどが緑色片岩系の石を素材としている。これは森川流域や双海海岸で得られるという地理的要因が大きく影響しており、この地方の大きな特色となっている。
 このほか、土を耕す石鍬も前期の片山や横田、中期の平松遺跡などから出土している。磨製石庖丁や磨製石斧などを作るためには、砥石が必要となる。これらも伊予市内の各地から、いろいろな砥石が出土している。なかには携帯用のミニチュア砥石もある。石質は砂岩や緑色片岩であるが、中期になると伊予砥に使用されている石英粗面岩の利用が多くなっている。これは梢川上流の稲荷谷で、たやすく得られるからである。

  ③ 祭祀用具
 祭祀用具としては各種の青銅器がある。青銅器のうち銅剣、銅鉾、銅戈は最初は武器であったが、次第に武器形祭器へと変化し、銅鐸などと同じ性格をもつようになった。東原遺跡出土の広形銅鉾も非実用的な武器形祭器である。武器形祭器はムラや小国家単位の所有の祭器である。これに対して銅鏡は一部を除いて個人所有の儀器か宝物であり、所有者が死亡すると、一緒に埋葬していた。ただし、現在まで伊予市内では未発見であるが、砥部町や松山市南部では出土している。
 もう一つの、家族単位の祭祀遺物ではないかといわれるのが、人の顔の形をした分銅型土製品であり、桧山平野から多く出土しているが、銅鏡と同様、伊予市と松前町内では未発見である。理由は調査例が少ないからではなかろうか。

  ④ その他の石器
 木材伐採用の磨製石斧や加工用の抉りのある石斧、片刃の石斧、小型ノミ状石斧など、用途に応じたバラエティに富んだ石斧が出現する。打製石斧もあるが、そのほとんどは土掘り用の石鍬である。各種の石斧の出現は、木器がいかに多く使用されていたかを物語っている。
 このほか、伊予市内の遺跡からは、他地域に比べて多くの石錘が出土している。
 石錘は網漁用とみられるものである。中期前半までは縄文時代と同じように、偏平な円礫の両端を打ち欠いた緑色片岩の石錘が使用されていた。越智郡島嶼部でもほとんど同じものが使用されていた。弥生前期の松本新池や八反地池、横田遺跡や、中期の平松遺跡でも使用されている。石錘は大きく、重さもあることから、海での網漁に使用されたものであろう。これらの石錘はすべて緑色片岩である点に一つの大きな特色を有している。緑色片岩の使用は、海水の色と同色であることと無関係ではないという説もある。いずれにしても、伊予灘沿岸で網漁が盛んに行われていたことがうかがえるが、貝類の採取を示すような遺物は発見されていない。
 弥生中期以降になると、緑色片岩の打製石錘に代わって白褐色の砂岩や石英粗面岩を鶏卵大に研磨し、側面と両面に溝を施した有溝石錘や、有溝土錘へと大きく変化している。これらの有溝石錘や有溝土錘は松山平野南部に集中している。有溝石錘は平松、向山、片山、行道山、横田遺跡などから、有溝土錘は岩崎池や平松遺跡から出土している。石錘や土錘の大きな変化が、どのようなことによるのかなどは不明であるが、その解明の鍵は伊予市周辺にあるといっても過言ではなかろう。このほか、片山遺跡の大溝中と猿ケ谷遺跡から紡錘車が出土しているので、糸を紡いだり、織物を織ったりしていたことは確かである。

第65図 土井池遺跡出土の前期~後期の弥生土器

第65図 土井池遺跡出土の前期~後期の弥生土器


第66図 平松遺跡出土の弥生中期の土器

第66図 平松遺跡出土の弥生中期の土器


第67図 平松遺跡出土の弥生中期の石鏃

第67図 平松遺跡出土の弥生中期の石鏃


第68図 平松遺跡出土の弥生中期の各種石器

第68図 平松遺跡出土の弥生中期の各種石器


第69図 上三谷岩崎池出土の弥生時代の各種石器

第69図 上三谷岩崎池出土の弥生時代の各種石器


第70図 上吾川八反地池出土の各種石器

第70図 上吾川八反地池出土の各種石器


第71図 上三谷岩崎池出土の土錘・石錘

第71図 上三谷岩崎池出土の土錘・石錘


第72図 松本新池出土の石錘・土錘

第72図 松本新池出土の石錘・土錘