データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

三、太平洋戦争下の生活

 戦時体制 
 戦時中の歌で今も時々放送されるものの一つに隣組の歌がある。この歌を聞いて先輩の人たちは、戦時中に組織された翼賛体制の下部組織である隣組を思い出すであろう。私たちが住んでいる伊予市でもこのような隣組があって、歌のように回覧板が家々に回された。しかし、当時の伝達の内容は現在とちがって、出征兵士の見送り、軍需用としての金属類の回収、生活物資の配給、公債の割り当て、防空演習、勤労奉仕、戦勝祈願など、戦争遂行のためについての記事で占められていた。
 そして、これらは〝常会〟によって決定されることが多かった。この隣組は、太平洋戦争前既に設けられていたものであったが、その後、大政翼賛会の指導下に入り、太平洋戦争中、地方の最下部機構として大きな役割を果たした。
 この一事でもわかるように、戦時体制下の国民生活は今とはかなり違い、厳しい統制下に置かれていた。
 また、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」のスローガンのように耐乏生活を余儀なくされたが、それは戦勝につながる道であると教えられ信じこまれていた。
 やがて、郡中地方の自動車の燃料も木炭となり、坊っちゃん列車にも豆炭が使われるようになった。国鉄でも機関車の燃料に粗悪炭が使用されたため、。南郡中駅を発車した下り列車が、三秋峠を登り切れずにしばしば後退をくり返し、乗客まで降ろし勢いをつけてやっと登り切るという状態が見受けられた。

 非常時下の生活 
 一九四二(昭和一七)年の一月からは、毎月の八日は、〝大詔奉戴日〟と定められ、二月からは衣料配給切符制が実施された。なお、主食である米は既に一九四一(昭和一六)年四月から米穀配給通帳制が実施されて、米は大人で一人一日二合三勺となっていたが、一九四二年からは、この配給量は単にカロリーを示すだけになった。
 更に、戦争の進展とともに物資の不足はますますひどくなり、貨幣価値は低下し、物々交換が各所で見られるようになった。一九四二(昭和一七)年四月、米機が日本本土を初空襲し、やがて国民は戦争に対する不安感を抱くようになった。そして防空壕が作られ、防火訓練、燈火管制訓練、防空演習が実施され、竹槍訓練や兵役義務年齢の男子による軍事訓練も定期的に行われた。
 また、各種団体による勤労奉仕も、勤労報国隊に参加して増産活動を活発に行った。開墾作業、農家の手伝い、除草作業、松やに採取、松根掘りなどであったが、中でも郡中~松前間に植えられていた数百年を経た三〇〇本近い松並木が切り倒され、その跡地はいも畑にされたが、この松並み木は見事なもので戦争協力のためとはいえ惜しいことであった。

 米機の来襲 
 一九四五(昭和二〇)年一月、県下もB二九の来襲があってからたびたび空襲にさらされ、松山・今治・宇和島・八幡浜・西条の諸都市が被害を受けた。中でも同年七月二六日夜の松山空襲は郡中地方からも見受けられ、改めてその悲惨さに胸を打たれた。また米艦載機グラマンによる機銃掃射もしばしばあり、郡中でもその銃弾によって民家が被告を受けた。また、吉田浜に松山航空隊があるため、日・米両機による空中戦が上空で展開されることもあった。
 伊予市一帯は空襲による被害こそほとんどなかったが、戦争の結果多くの戦死。戦病死者・戦傷者・遺家族世帯・戦争遺児を生じたほか、有形、無形の戦争による被害は、はかり知れないものがあった。