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伊予市誌

一、明治以降の衛生行政

 明治維新後、諸外国との交通運輸が開かれ、先進国から各種の文明文化が入ってくるようになって、今まで全く見聞もしなかった恐ろしいコレラ・ペスト・天然痘などの伝染病が伝わってきた。当時、我が国では衛生行政もようやく緒につこうとしていたときであった。
 一八七七(明治一〇)年コレラが流行し、全国に広がってその患者総数は一万三、八一六人になり、うち死亡者は八、〇二七人と死亡率も五八%の高率を示し、コレラはコロリ病といって人々に恐れられた。
 一九一〇(明治四三)年に発行された『郡中町郷土誌』の中で、衛生について次のように記録されている。

  沿革 衛生の事たるや維新後にはじまり、時として伝染病の発することもあるも、単に流行病にして予防・消毒等の行わるることなし。しかるに去る安政五(一八五八)年虎列拉病(当時コロリという)の際、その筋よりの示達左の如し。
   但し大字灘町の記録による。
     覚
   此節流行の暴潟病その療治の方種種ある趣に候えども、其中素人の心得えるべき法を示す。あらかじめこれを防ぐには先ず身を冷やす事なく腹には水綿を巻き、大酒大食を慎み、その外こなれがたき食を一切申すまじく、もしこの症催し候はば、早早寝床に入りて飲食を慎み総身を暖め、左に記す芳香散という薬を用ゆべし。これのみにして治するもの少からず、かっまた吐潟甚だしく総身冷える程に至りしものは、焼酎一、二合の中に龍脳または樟脳一、二匁を入れ暖めて木綿の切れに浸し、ならびに手足に静かにすりこみ、からし泥を心下腸並びに手足に半時位ずつたびたび張るべし。
   芳香散 上品桂子油末 益智細末 乾姜細末
  右調合致し一、二分ずつ時に用うべし。
   芥子泥 からし粉 うどん粉 等分
  右あつき酢にて堅くねり木綿切れにのばし張り候事。
   但し間に合わざる時はあつき湯にて芥子粉ばかりねり候事よろし。
  またの法はあつき茶にその三分の一焼酎を和し砂糖を少し用ゆべし。
   但し座敷をしめ、布・木綿などに焼酎をつけて、しきりに総身を、但し手足の先並びに腹冷える所を湿鉄または湿石を包みて、湯遺をひたる如く心持になる程こするもまたよし。
  右は此の節流行病甚だしく、諸人難儀いたし候に付き其の症にかかわらず早速用いて害なき薬法を諸人のため心得えきっと相違なき候こと。

 一八七七(明治一〇)年のコレラ流行について、伊予警察署の沿革誌中「八 伝染病の流行」について、コレラのことを次のように記載している。

  一 明治十年六月ノ頃北伊予村ニ同病(コレラ)流行シ多数ノ患者ヲ出シタルモ、当時避病舎ノ設備ナク該場ノ消毒清潔法ヲモ行ハズスコブル惨状ヲ極メタリ。

 これによっても、コレラだけでなく伝染病の流行は当時惨状をきわめたことを知ることができる。続いて明治一一、一二、一三年と毎年コレラの流行に悩まされたことを次のように記録している。

  二 明治十一年岡田村大字北川原部落ニ同病流行、これまた同上にて惨状ヲ極ム。
  三 明治十二年六月頃、松前村字浜ニ同病流行シホトンド全村ニ縄張リヲナシ、通行出入リヲ止メ職業ヲ廃シ、日夜神仏ニ祈願シ人心恐々タリ。患者三百余人ニ及ビ内百八十余人死亡セリトイフ。
  四 明治十二年北山崎村ニ於テモ同病流行シ患者三十四人ヲ出ダシ死者無数ナリト云フ。
  五 明治十三年南伊予村ニ於テ同病流行シ死者数エガタキニ至ル惨状ヲ極メタリト云フ。
  六 同年同上砥部村ニ於テ同病流行シ、死者数ヲ知ラズ人心恐々職業ヲ廃シ神仏ニ祈願シテコレガ感染ヲ避ケ、マタ各戸ニ空銃ヲ発シテ予防ニ努メタトイウ笑ヒアリ。

 このように伝染病がひとたび流行すると、たちまちに広がって人々を苦しめた。
 一九〇一(明治三四)年に隔離病舎ができてから、伝染病は激減した。このことについて『郡中町郷土誌』には、次のように記されている。

   当町は伝染病非常に少なく、赤痢・コレラの如きは近年皆無なり。これ気候の佳良によるべけれど、町民一般の伝染病予防に対する観念の厚きによる。このことは、大いに賀すべきことなれども、ただ呼吸器病殊に肺結核及び消化器病の増加の傾向あるは大いに注意すべきものとす。要するにかかる病は家屋の構造と運動の不足とより生ずるべければこの点に留意すべきなり。