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中山町誌

五、 縄文後期

 縄文後期は、C14測定一四〇四プラスマイナス一五〇BCの福岡県山鹿貝塚を標式とする時代である。後期の前半は、土器の成形に使用された縄目の痕を消した磨消縄文文様が盛んになり、全国的な広がりがみられるが、これらの土器の中に地肌をよく研磨した黒褐色の光沢のある土器がある。これらの土器は焼成法の技術の変化を示す遺物である。
 近畿以西で出土する磨消縄文土器には、口縁が波状をなすものは少ない。土器器種には深鉢・鉢・浅鉢の三様があるが、波方港海底遺跡で出土したものには、注口土器(加曽利B式)があった。西日本においては後期後半になると土器の器面全体を研磨したものが主流となり、宮崎県陣内遺跡出土の御領式の鉢はその代表的なものであるが、器形の点では、後期前半の伝統を受けついでいる。
 県下での後期の遺跡は、爆発的に増大し九〇ヶ所を越える状況にある。主な遺跡には東予市六軒屋遺跡、小松町小松川底遺跡、南宇和郡御荘町平城遺跡、上浮穴郡久万町山神遺跡・宮前遺跡、北宇和郡広見町岩谷遺跡等がある。最近、内子町での詳細分布調査により、中山川の流域で縄文後期の遺跡(松の木・村浦東)が発見されている。
 約BC九~三〇〇年間に展開された縄文晩期の文化で縄文時代は終わりとなる。晩期の土器文様は、弧状に沈線を施文するものや、交叉させるもの、頸部や口縁部に刺突文を付けるものが盛行する。器形には、浅鉢形も多くなり、口縁部の作りは、外反するものや、くの字に屈曲するものから、口縁上端面にヒト状の突起を作るものなど多彩である。大淵遺跡・船ヶ谷遺跡・久米窪田遺跡などが代表的な遺跡である。

図1-2 縄文中・後・晩期の遺跡分布図

図1-2 縄文中・後・晩期の遺跡分布図