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中山町誌

五、 金印の発見

 中期後半は後漢(二五~二二〇)の後漢書に、わが小国家の遣使の存在が二度みえる。同書の光武帝本紀に、「中元二年春正月辛未、東夷倭奴国王、使を遣わして奉献する」とあり、また同書の東夷伝倭国の条に、「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人、大夫と自称す。倭国の極南界なり。光武賜ちに印綬を以てす」(原漢文)と記されている。
 倭国王が遣わして、貢物を献じた。この貢物に対して、光武帝はその使者に託して、印と綬を送った、という。
 江戸時代の天明四年(一七八四)、博多湾にある志賀島の叶崎で、灌漑用水路の清掃中に、溝の中に大きな平らな石を見つけ、その石を掘り起こすと、三つの小石が立っていた。この間より黄金の印を発見した。印高○・八八七センチ、四辺の平均二・三四七センチ、重さ一〇八・七二九グラム、蛇を象った摘みのある金印が発見されたのである。金印は陰刻で「漢委奴国王」とあり、国宝に指定された。漢時代は王侯が用いた一寸四方の金印であり、往時の寸法に合致する金印である。
 以上のように弥生時代の中期後半ともなれば、大陸との外交が始められて、小規模ながらも国家的な活動が開始されている。瀬戸内海を中心に山頂に立地した高地性遺跡は、この頃に形成されたらしい。
 その主なものに伊予三島の丸山・西条市の八堂山・越智郡生名村の立石山・吉海町の八幡山・松山市の大峰ヶ台・伊予市の行道山などがある。これらの高地性遺跡は後期に発生した「倭国大乱」によってできたとする説もあるが、山頂には立石や大峰ヶ台にみられる二~四基の竪穴式住居が検出され、出土する生活什器も多く、定住生活が推測され、直接的に防御する機能を求めるより、連絡・見張り的な機能を共有した烽火台的な活用がその存在の直接的な要因とみなされよう。