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中山町誌

三、 郷村の負担

 (一) 年貢・夫役
 江戸時代の農民(百姓と呼ばれた)は、幕府・諸藩に年貢・夫役を納入し、また村の住人として村入用を納める義務があった。年貢率は共通ではなく、地域によって相違があった。年貢は、村単位で徴収され、庄屋・組頭は年貢の割り付けをする仕事を命じられていた。
 年貢は、当初は各種の生産物で徴収されたが、米が全ての基本となるため、米で徴収するものを本年貢(本途物成)と呼び、それ以外のものは小物成と呼ばれ、現物納が中心であった。
 夫役は、生産物で負担することが原則となり、五街道に見られる助郷役以外は臨時課税であった。
 このほか、農民の負担には、御種子米と称する強制的貸付米の利子や藩主が財政危機に陥った時に御用金(銀)・米を徴収することがあったから、時期により、また地方により負担額に差があった。
 年貢や諸種の夫役を負担するのは、検地帳に記載されている本百姓である。寺社・堂地・墓地は除地として課税されず、村役人(庄屋・組頭など)も公の仕事をする代償として、夫役を免除されたり、一定の石高分だけ年貢・村入用を免除される特典があった。

 (二) 本年貢(本途物成)
 検地による田・畑・屋敷地の評価から、石高が表示される。これに年貢率が掛けられて、納入する年貢が決まる。本年貢の算出には、成育・収穫状況を調査する検見取りと数年の収穫を平均して、一定期間年貢を増減しない定免法とがある。一般に年貢率は検見法の方が低く、定免法の方が高い。しかし定免法の場合は、検見役人接待費が不要だから、村人用が減少する。藩は収入の増加と安定が期待できるから、享保以後定免法が一般的となった。大洲藩の場合、享保元年(一七一六)より五年の期間をもって定免とすることを布達している(「大洲市誌」)。だが現実には当分定率の年貢徴収は困難であった。元文元年(一七三六)の本途物成の実収高は三万二、五六四石余、同二年が三万八、六六四石余、同三年三万二、〇六六石余、同四年三万一、六一三石余となっており(「元文日録」)、石高に対する税率はそれぞれ六五%余、七七%余、六四%余、六三%余となっている。年貢は藩の蔵に納入されるが、大洲城の蔵ばかりでなく、須合田・長浜・上灘の蔵に納められる場合もあった。内山筋に属する出淵・中山・佐礼谷の年貢は上灘納めであった(「大洲藩領史料要録」)。
 年貢を納入する時に、斗桝に盛った米・大豆などを計量する際、穀類を平らにならす「とかき」は泰興時代に寸法や形状は定められていたと想定されるが、藩の財政難とともに繰棒と呼ばれるものに変化したとされる。農民の強い要求もあって寛保二年(一七四二)、五代藩主泰温は直棒と呼ばれる、直線的な「とかき」に改めた。
 『加藤家年譜』に「御蔵ニ而計棒古来ヨリ繰棒処、此度直棒相成」と記されている。これが延享五年(一七四八)に再び繰棒に戻ったため、負担の増加した農民は計棒の改善を求め、ついには寛延三年(一七五〇)の内ノ子騒動に発展する一因となった。
 内ノ子騒動の概要は次のとおりである。
 寛延三年一月中旬、二隊に分かれて蜂起した小田筋の農民が大洲出訴を目指した。本隊は村前・北表・五十崎へと進み、別動隊は栗田・佐礼谷中替地・中山・出淵を経て内子へ繰り出した。騒動の発端は年貢増徴であった。農民が納税の際の直棒使用を申請していたのに、藩庁が具体的な返答をせず、庄屋に徒党弾圧を命じていたこと、蜂起を計画した農民のうち、寺村の清兵衛が同村庄屋栗田吉右衛門に捕らえられたことなどである。一揆は村々の庄屋や豪商宅を攻撃し、その多くを破壊した。別動隊は一八日惣津村に宿泊し、翌日中山村で美濃屋内田太右衛門・玉屋玉井九郎右衛門両家を打ち壊そうとしたが、両家が謝罪したので少々破壊した程度で治まった(愛媛県立図書館「緒方文書」)。
 一揆の人々は中山村・出淵村に止宿した。
 一月二〇日、内ノ子河原に集結した農民は一万八、〇〇〇人で、大洲藩領内で起きた一揆のうち最大規模のものとなった。藩の調停能力を超えたと見た内子高昌寺真猊・願成寺秀寛らは農民と交渉した。また新谷藩は郡奉行津田八郎左衛門らを派遣して鎮撫を試みた。新谷藩の仲介と、高昌寺・願成寺・法華寺の努力による頭取不吟味に満足した農民は、一月二八日帰村して騒動は決着した。
 農民の要求した項目のうち、大洲藩が受け入れたものには、年貢率を定免にすること、計棒をくり棒から直棒に変更すること、御用大豆の納入は免除、御用紙買い上げは代銀を町並に支払うなどがあった(「加藤家年譜」・「百姓徒党取扱之覚書」・「寛延秘録」・「緒方文書」・「岡崎文書」)。
 このほか一揆に関するものとして、宝暦一揆未遂事件がある。宝暦一一年(一七六一)、内山筋・小田筋に不穏な動きがあることを察知した大洲藩は、一月二六日、郡奉行矢野清人・村上忠左衛門、代官大久保清助・清藤八郎右衛門らが二手に分かれ、一隊は内ノ子・五十崎から小田山へ、他の一隊は灘・佐礼谷から小田山に向かった。こうした努力により一揆は未然に防止された(『松山藩郡奉行所日記』)。
 農民の騒動は、このほか文化一三年(一八一六)の大洲紙騒動、天保八年(一八三七)の田所柳沢騒動、慶応二年(一八六六)の奥福騒動(大瀬騒動ともいう)があるが、中山町に直接関係していないので省略する。

 (三) 小物成・運上・冥加・御用銀・寸志銀
 田畑以外の山林・原野・薮・川海・商工業行為にかけられた税を小物成という。「地方凡例録」には小物成浮役として「山年貢、山小物成、山役、山手米永、野年貢、野役米、野手米永、草年貢、草役米、草代、茶年貢、茶役、漆年貢、櫨・松山・薮・林・葭等之年貢、葭代、菅野銭、楮油荏役、御林下草銭、河岸・池・池魚・網・網代・鳥取・紙・船等之役」をあげている。これらは郷帳に記され、毎年定納することになっている。年貢割り付け状では、本年貢とは別であることを明記するため、小物成は「外」と表現している。なお、小物成は銀で納入することが普通であった。
 浮役は「何役・何永・何分一・何運上・冥加永」の形式をとり種類が非常に多かった。明治初年の調査では二千種類あったといわれる。たとえば水車運上・市場運上・問屋運上・質屋冥加永・鍛冶役・鯨分一などという名称を付けて徴収した。これは諸商売・職人・農間稼ぎ・その他に課す営業税・営業免許税・臨時税であったから徴収額は一定ではなく、村高に含まれることはない。
 小物成に含まれるものとして、出目米・欠米・口米・口永などがある。これらはいずれも付加税としての性格を持つものである。ただ、出目米・欠米・口米については米で納入するから、本途物成と密接に関連するものとして物成米として一括徴収され、後で項目別に整理されたようである。村高に対して掛けられる高掛物は、夫米・夫金・糠藁代などがあった。夫米については物成米として一括徴収された。
 大洲藩の主たる掛り物・小物成を挙げると次のようになる。①四歩一歩(村高一〇〇石について米六石納入。村掛役の扶持米。一歩は馬の飼料の草藁・豆葉代)、②水主役(中山町の村々は関係なし。海辺の村の負担)、③胡麻(高一〇〇石につき四斗八升納入)、④苧・綿・茶(綿畑・茶畑・桑畑の税を免除する代償として納入)、⑤漆(高一〇〇石について斤目五〇匁納入)、⑥渋(高一〇〇石につき二升七合納入)、⑦大束(高一〇〇石につき二四束、水主役・伝馬役納入の村は納入せず。⑧・⑨同様)、⑩蕨縄(高一〇〇石につき一〇把納入)、⑪鍛冶炭(高一〇〇石につき五石納入)、⑫竹役(竹切り出しに高一〇〇石につき二〇人役を出す)。
 御用銀については、本来返却される性質のものであったが、藩が財政難に陥っていたから、貸し倒れの危険性を持っていた。中山村の美濃屋太右衛門は一〇年賦で銀二貫五二〇目を用立てたが、半分しか返済されなかった。
 大洲藩では、城下町・新谷・五十崎・内ノ子・中山・郡中(御替地)・長浜に豪商がおり、藩はこれらの豪商に苗字帯刀・上下着用許可や扶持米給与を代償として、御用銀米の差し出しを命じた。中山村の美濃屋太右衛門は大豆を二回に四五〇石献上して苗字を許され、三人扶持を与えられた。また同村の玉井宗徳は、元文元年(一七三六)から寛延元年(一七四八)までの間に銀二八貫目余、大豆六七〇石余を献上した(「大洲市誌」)。
 幕府の公役も農民や商人への負担として重くのしかかってきた。例えば文化一〇年(一八一三)に大洲藩は関東川々普請手伝を命じられた。藩は経費の捻出に苦しみ、八月に領内の富商・富農に御用銀を命じた。拠出を命じられたのは二九名、銀二五二貫目であった。文政六年(一八二三)にも同じ負担があり、富商・富農三九名に銀三〇九貫目が割り当てられた(「大洲商家由来記」)。
 「大洲藩領史料要録」には、庄屋・旧家が藩主に献上する品物が記されている。出淵・中山・佐礼谷など柳沢組の一二ヶ村(前記三村のほか、河ノ内・柳沢・田所・立山・上石畳・麓・下石畳・境)が年始(一月七日)の際に蝋燭一〇〇挺を差し出していた。

 (四) 村入用
 村入用は、米もしくは銭(藩札・銀などの場合もあった)で徴収する。その名目は、年貢割り当てや徴収の経費、年貢を領主に納入するための経費、村々を回る役人(幕府役人・藩の役人など)の接待費、組合村の費用などが主なものである。村役人の給料、出張費、道・川・橋・用水の普請費、村として使う筆・墨・紙の購入費・寺社への寄付金・神社で毎年配布するお札の費用・遍路に関する費用・そのほか種類は多い。耕作に関係する水利・土木工事、入会地や林野の管理、防火・防犯などについては、労働で負担することが普通であった。これらは通常、「役」と称しており、石高割・戸数割などで課されていた。寺社に対する諸種の負担、社会福祉的性格をもつ座頭・瞽女米などや、江戸時代後半になってから一般化する貯穀は一種の租税として受け取られていたと思われる(「預籾と自分貯」参照)。
 村入用は、その都度村役人が立て替え払いをしておき年度末に精算して村人から徴収した。もっとも臨時の多額の出費がある場合は、その都度徴収した。村入用帳は支出の度に記帳することになっていたが、幕府は村入用の監査を目的として、村入用帳の提出を命じた。村では帳簿を二冊作成して、そのうち一冊が検閲後返却されるという仕組みであった。村入用帳の検閲を領主側が実施した理由の一つに、村役人による不正支出を防止し、村方騒動を未然に防ぐという意図があったことがあげられる。なお、村入用のほか、郡単位で徴収されるものとして郡割(大割)があり、これが村入用に加算された。

 (五) 御種子米
 御種子米とは元来、翌年の再生産に必要な種子を貧困者に貸しつけ、収穫後に利子とともに返却するものであった。ところが、藩が財政難に陥ってからは、この利息収入が増収につながるところから、恒久的な貸しつけとなり、毎年の年貢納入期には、利子のみを納めて本米は返却せず、帳簿上の操作で納入することが一般化した。農民にとって御種子米の利息は税と何ら変わらないものとなったのである。御種子米の利息は、通常三割であったから結構重い負担に感じられた。

 (六) 預籾と自分貯
 享保大飢饉の反省から、幕府は凶荒対策として年貢収入の一割備蓄を諸藩に勧告した。幕府が幕領に実施したのは宝暦三年(一七五三)であり。伊予でこれを真似たのは宇和島藩であった。大洲藩が備蓄を開始したのは寛政元年(一七八九)のことであった。備蓄数量は、初年度二〇〇石であった。大洲領の米は油強籾のため長年の貯蔵には耐えられず、幕府に申請して毎年入れ替えることとした(『大洲市誌』)。『江戸御留守居役用日記』によれば、寛政五年(一七九三)には大洲藩一、二五〇石、新谷藩二五〇石貯蔵となっている。寛政八年、加藤泰済は諸所に貯蔵の設置を命じて、囲米の充実を図っている。
 この年における大洲藩の囲籾は二、五〇〇石で、領内の村々の高に応じて預からせることとして、これを「預籾」と称した。
 これ以外に、村の有力者に実施させたのが「自分貯」である。藩は米ばかりでなく雑穀も貯蔵させている。大洲藩は村々が自主的に少量の米を貯えることを奨励した。いわゆる小貯である。栗田村への割り当ては一石二升七合であったが、寛政五年に要求を上回る一石三升を出米している。享和二年(一八〇二)は四斗四升余で、文化一四年(一八一七)の出米は四石一斗一升九合余であった。大洲藩ではこれ以外に凶年対策として、村高一石について一斗の貯えを要求した。寛政七年(一七九五)にはじまり三か年をかけて完了する計画であった。藩は二割を補助することとして、文化三年に「大貯」と命名された。栗田村の出米状況は寛政七年が四石二斗九升四合、同八年が二石一斗五升、同九年が二石一斗五升九合であった(『大洲市誌』・『大洲藩の凶荒備蓄制度』)。
 文政三年(一八二〇)、大洲藩は小田筋に三七四石、南筋に四五〇石、川筋五〇〇石八斗、郡中に六四五石六斗を預けた。『大洲手鑑』に次のように記されている。

「 御演説之大意
  先年ヨリ凶年不慮之為備米弐百石宛貯来候処、御領中ハ手広成事ニテ、右之貯而居而ハ、若飢人三分の一ニ及候而も、六、七十日之露命ヲつなき候位之事ニ而、寔ニ聊之事ゆへ、近年来相応之年柄ニ付、自然穀物価も下直ニ相成候ゆへ、上鉢ニも籾弐干五百石御貯ニ相成、村々へ御預相成候ニ付、御領中有金有之候もの、夫々貯籾別紙之通申付候条、右主意厚相弁、可成年長貯可申候事、
   (文政三)辰十月
               垂井 衛門
               井口 又八
               町田 真助
               田村久太夫
  貯籾仕成
  一 籾干五百石   御分御貯
    但シ御領中田畑高ニ割付村々御預ケ之事、
  一 同八千石余   郡内株立ノ者へ為貯候事、
  一 同三千石余   郡中右同断 〆 壱万三千五百石余
  一 御貯籾拵随分入念相納之事、
  一 御預籾年々詰替之事、
  一 銘々囲籾、米籾之内勝手次第之事、
  一 囲籾申付候高之内、当辰年半当、残来巳年相囲可申事。
    但シ、当年皆済勝手次第之事、
  一 銘々囲籾売払之儀ハ可及差図事、
    但シ、格別難渋ニ及候ハ丶、売払申出候ハヽ勘弁ノ上承届可申候、
  一 此度申付候者之外ニ而も、拾石以上致囲籾候者ハ可申出候事、
  一 囲籾銘々之土蔵へ積置、土蔵無之モノハ何レヘ成共勝手ニ囲可申事、
  一 囲高差図候者之名前役所へ張置、帳面等厳重ニ仕置可申事、
  一 囲籾為改郷目付手代差廻し可申事、
  右之通仕成相定候条、随分厳重ニ相心得取計可申者也、
   (文政三年)辰十月       御郡方   」

 内山筋では、田ノ口村・若宮村・徳ノ森村・古田村・大久喜村・奈良野村・弦巻村・宿間村・北表村・平岡村・柳沢村・田所村・境村・麓村・上石畳村・下石畳村・袋口村・河ノ内村・論田村・立山村・川中村・出淵村・中山村・佐礼谷村で合わせて五二九石六斗を預けた。現中山町関係の村では、中山村が五八石四斗、出淵村が六一石六斗、佐礼谷村が三八石八斗となっている(『大洲手鑑』)。
 自分貯籾は、小田筋二、四四〇石五斗、南筋七八五石、川筋二、五四五石、内山筋一、四一五石が割り当てられた。
 これは年々更新したので年度によって異同がある。慶応二年三月、内山筋では田ノ口村・徳ノ森村・古田村・宿間村・北表村・平岡村・田所村・下石畳村・上石畳村・袋口村・河内村・論田村・立山村・川中村・出淵村・中山村・佐礼谷村を合わせて一、二〇二石となっている。このうち中山村では大森忠兵衛が七〇石、城戸庄五郎が一五石、奥島九兵衛・永尾林左衛門・大瀬屋金助・長岡吉兵衛・橋本万三郎・伊達芳三郎・高野儀之助・長七・惣右衛門・団右衛門・文左衛門・六三郎・卯左衛門・万三郎・国三郎・新六・忠治・長之助かそれぞれ一〇石、出淵村では谷右衛門・喜八がそれぞれ一五石、重右衛門・喜右衛門・鉄左衛門がそれぞれ一〇石、佐礼谷村では好左衛門が一五石、惣兵衛・六三郎・善左衛門・惣太三郎・常治・作五右衛門・吉五郎・阿部勘兵衛がそれぞれ一〇石であった。
 次に掲げる史料は、天保一一年(一八四〇)、大瀬屋金助の上納銀米に対して上下着用が許可された時のものである(山本家所蔵文書)。

(史料1)
  籾拾石 中山村 大瀬屋金介(金助)
(史料2)
  此度極難之村々御取扱
  有之、実ニ御太造之儀ニ而、
  御手茂難被届処、
  御主意厚相弁、上納銀
  願出奇特之至
  思食被遊
  御受納、依之為御称美
  上下着用永々被指免
  候之間、左様相心得可申候、
  (天保一一)   大塚林左衛門
   子三月     染木 正平
           渡邊佐次左衛門
           小野八右衛門
   中山村 大瀬屋金介殿

 大瀬屋金助が上下着用を許可されてから二五年後、大洲藩は領内に銀一、〇〇〇貫目の御用銀を命じた。その際に賞美規定(格式)が変更され、「上下着用永々」の条件は平百姓の場合は銀五貫目、組頭の場合は二貫目となった。それ以前はそれぞれ三貫目・一貫五〇〇目であった(「平岡村庄屋文書」・「大洲手鑑」)から、金助の献上銀は三貫目以内であったと思われる。

 (七) 郷筒・軍役夫・郷足軽
 文久三年(一八六三)三月、大洲藩は町郷より郷筒を募集することとした。松山藩における村々を警備する郷筒とは全く性格が異なり、藩が京都の非常警備を拝命したので、藩士が行なうべき領内警備の仕事を代行することが目的であった。「久保家文書」によれば、郷筒に志願する者は鉄砲を持参することが建前であった。軍事出張に際しては帯刀が認められ、笠・玉薬・火縄などは藩が支給した。中山での応募状況は不明であるが、「帯刀」・「尻割羽織着用」は魅力であったろう。
 『大洲手鑑』には慶応元年(一八六五)の軍役夫の割り当てが記されている。高百石について三歩五厘の割合であった。小田筋は本夫八〇人・平夫一五七人、川筋は本夫一二八人・平夫一八二人、内山筋は本夫七五人・平夫一四〇人、南筋は本夫一〇三人・平夫一六五人、郡中は平夫四〇六人であった。これも中山の人数がわからないが、石高に三歩五厘をかけ算すれば算出できる。
 これより一年前の元治元年、大洲藩は郡中で「郷足軽」を取り立てた。また一方郡内洋式銃隊を採用した。以前に取り立てた郷筒の中から選抜され、慶応元年四月に編成がなされた。選抜条件は四〇才以下・居住地は内山筋の場合は論田村まで・人数は一二四人であった(「郡奉行覚帳」・「大洲手鑑」)。
 大洲城下町を起点とすれば、論田村(現内子町)が限界となっているから中山・出淵・佐礼谷・栗田からは採用されなかったと思われる。