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中山町誌

三、 宗門改

 幕府がキリスト教禁令を出して、キリシタンの取締りを始めたのは、慶長一九年(一六一四)である。私領では土佐藩が元和二年(一六一六)に宗門改めを実施している。こうした動きが全国的に拡大されるのは寛文四年(一六六四)である。同年幕府は、諸藩に対して専任の宗門改役人の設置と、宗門改を毎年実施することを要求した。宗門改に際して作成される宗門改帳は、次第に宗旨を個人別に記載する宗旨人別帳の形態に統一されるようになる。寛文一一年宗門改帳が法制的に整備され、宗旨人別帳の作成が宗門改の中心となった。作成するのは村役場と寺院である。人別帳に記載された人々は必ずいずれかの寺院の檀家として登録され、冠婚葬祭・旅行・戸籍の移動・奉公・出稼ぎなどいずれの場合にも、寺院が檀家であることを証明する寺請証文を発行した(寺請制度)。キリスト教禁圧の目的が一応達成された後も、宗門改めは継続され、宗旨人別帳はその本来の目的から離れて、戸籍原簿として、また租税徴収台帳として活用されることになった。宗門改制度の廃止は明治六年である。
 宗門改には毎年実施する小改と五年目毎の大改とがあった。宗門大改の時には、起請文を添えて藩の宗門改役所に提出するきまりであった。起請文の内容は、
 ①当村中の宗門について詳細に調査をしました。
 ②キリシタンの信者およびその血筋、不受不施派や悲田宗の者、こうした宗旨の者は一人もおりません。これ以後、もし疑わしいものがおれば、詮索して報告致します。
 ③他所から来たもの、確かな寺請手形を所持している者については、早速庄屋に連絡し、その指図により逗留させます(庄屋のところへ来た客については組頭に寺請手形を見せ、相談して逗留させます)。たとえ、親類・縁者であっても、宗旨の疑わしいものは逗留させません。不審な者を隠したことが分かったときは、その者はもちろん、庄屋・組頭・五人組まで処罰をして下さい。
 以上のようであった。そして、起請文であるから、「梵天帝釈四天王・日本国中六〇余州大小の神祇、殊に伊豆箱根両権現・三島大明神・八幡大菩薩・天満自在天神、親類と一族の者すべて神仏の罰おのおの蒙るべきものなり」という文言を添え、村庄屋以下組頭・五人組頭が署名・血判(特殊事情のあるもの、高齢者は黒印)した。