データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

二、 五人組

 幕府・藩の統制は村内の下部組織にまで及んだ。三代将軍徳川家光の時代、寛永年間に幕府はキリスト教禁止の強化手段の一つとして五人組を整備したといわれる。
 もちろん、それがすべての目的ではなく、町村秩序を維持するために設けられたものである。ほぼ五軒で一組としたので、五人組といわれる。戸数が極端に少ない村や集落が分散している場合には、一~三戸の場合もあったし、稀には一〇戸を越す場合もあったようである。五人組の構成員は、庄屋・組頭など村役人を除く本百姓・高持百姓である。
 五人組の役割としてキリスト教の取締りをはじめとする相互監視や、犯罪の防止、良風維持、法令遵守などをあげることができよう。
 五人組帳は、五人組の守るべき法令を列挙し、五人組構成員が署名捺印したもので、五人組頭は構成員に常々この法令(五人組帳前書)を読み聞かす義務があった。
 五人組帳前書は普通五〇ヶ条前後であるが、時には一五〇ヶ条を超えるようなものもあった。内容は、宗門・孝行・家業出精・土地永代売停止・衣類制限・盗賊等訴出・捨て子禁止・牛馬売買・寺社・転出入・分地制限・田畑用水等・新田畑・火の用心・池川普請・山林・諸勝負禁止・年貢等納入・代官手代等廻郷・帯刀禁止、その他であり、時期により内容に多少の相違がある。条文の数も非常に多くなったため、初期には条文全てを読み聞かせていたようであるが、後には必要に応じて、特に強調すべきもののみを代官の指令によって読み聞かせるという方式も取られた。
 代官所からの伝達は、庄屋所で読み聞かされることもあった。特に農作業の事については、五人頭が庄屋宅に赴いて諸注意を聞き、それを五人組に伝えた。村中に徹底すべき事項としては、次のようなものがあった。
 ①麦作修理の事、村中精を出して油断することがないように。
 ②池や川の工事については早く手配をするように。普請願いを出して受理されたら、樋木・杭木など藩から支給するので、渡すのが遅れるようなことがあったらすぐ連絡すること。
 ③井手・溝の底さらえ、井関の修理についても油断なく手配をするように。特に念を入れて底をさらえ、掛水について不始末がないようにせよ。
 ④春田・拵地、村直しなどについて。
 ⑤刈敷(草を刈って肥料として田に敷き込む)の事。
 ⑥春物(春の作物)のうちに内俵を編んでおくように、縄の仕立て方については別に通達しているようにせよ。
 ⑦池にはちゃんと水を溜めておくこと。
 これらは、正月に伝達したものであり、その他の季節になると細々と指示が出されたのである。「慶安の御触書」に見られる「年貢さえ済まし候えば、百姓ほど心安きものはこれなく」などということは決してないことがよく窺われよう。
 農作業以外の事についても、庄屋宅で一月・七月など、定期的に読み聞かされた。例えば、「博突諸勝負の義は重き御制禁につき、正月子供遊びに至るまできっと相慎み申すべし、無宗門・立帰者・一夜の立宿もいたさせまじく、百姓の本意を失わず、惣じて分過の仕成これ無きよういよいよ堅く相守り申すべく候」などと伝達されたのである。
 江戸時代も終りに近くなると、頻繁に倹約令が出されるようになる。例えば「馬の荷鞍に使用する金具について、近年真鍮を用いることが流行して、貧しい小前百姓でさえも粗末な品が使えないような風潮となっている。今後は、真鍮製の金具を禁止し、鉄製で丈夫を第一とせよ」など、農民の使う道具の材料に至るまで指示している。
 そのほか、「奉公・他国稼ぎには年限を明記し、在所役人連印の往来証文が必要であること。出家・修験弟子入については村役人の同意が必要であること。僧侶・神官の旅行ならびに大社巡礼・六十六部・四国巡礼・金比羅参詣などの手続きは奉公稼ぎと同様であること」などが伝達された。いずれも毎年同じことの繰り返しであった。もっとも金比羅参詣および宇和島和霊社へ病気平癒祈願のため代参する場合は、村役場で許可してよいことにするなど、手続きの簡素化について連絡されることもあった。
 寛政六年(一七九四)閏一一月、加藤泰済の時代に出された「申渡覚」(長浜町今坊久保家文書)には、衣服統制が詳細に記されている。その概略は男子・妻子の上衣は木綿。夏の衣類は粗末なものを着用(糸交じりや越後縮不可)。下着・帯は紬類以下。裏付上下は禁止。櫛・笄は木・竹・鯨・硝子に限るなどであった。