データベース『えひめの記憶』
中山町誌
二、 伊予を通過した巡見使
農民の負担のうち、案外忘れられているのが、将軍の代替わりごとに派遣される巡見使の通行に際しての負担である。ここでは負担については軽く触れるにとどめ、巡見使の通行の実態に視点をおきたい。
巡見使とは、江戸幕府が、将軍の代替わりごとに全国の天領・私領視察のために派遣したもので、享保元年以後は、天領巡見使と私領巡見使とに分かれた。巡見使は、諸国の税額・軍役・人口・政治の善し悪し・庶民の生活・訴訟の状況・その他を調査して幕府に報告したから、大名はその結果によっては取り潰しになる場合もあり、巡見使の応接には細心の注意を払った。ただ、巡見使の目的が民情視察であったから、直接の応対は農民でなくてはならないので、藩は事細かく、巡見使の質問に対する答えを用意して、庄屋・組頭をはじめとする応接の者を指導した。
伊予を通過した巡見使は、寛永一〇年(一六三三)から天保九年(一八三八)までの間に九回あった(海岸巡視や天領巡見使を除く)。
天保九年の巡見使は、幕府が派遣した最後の巡見使である。八代将軍の頃から次第に本来の目的である民情視察を忘れて、私腹を肥やすことにのみ意を用い、物見遊山に興じる不届きな巡見使が見られるようになっていたが、天保九年のものはその典型であった。
総勢一一五人にも達する一行は、閏四月二七日九州方面の巡見を終えて三机浦に上陸、同地に宿泊したのち、大洲領を通過、一旦松山領の山沿いを通って川之江・三島に移り、海岸部に出て西条・小松・今治領を経由して再び松山領に入り、それより大洲・新谷・吉田・宇和島領などを回って土佐藩領に取り掛った。
一行のうち主なものは『続徳川実紀二』天保九年三月一五日条に「使番平岩七之助・曽我又左衛門・黒田五左衛門、西城小姓組片桐靭負・右大将殿小姓組大久保勘三郎・中根伝七郎、西城書院番三枝平左衛門・右大将殿書院番近藤勘七郎・岡田左近」の名が記録されている。
大洲領を通行するとき、巡見使一行のうち三枝平左衛門の押足軽である東川五介・田中吉五郎、荷物方藤介・岩蔵らが長浜の宿で世話係の者に菓子料の名目で金を要求した。これに対して、大洲藩の世話係が三枝一行の小者達に百疋ずつ渡して事なきを得た(有友家文書「御巡見中日記」)という。
三枝一行の世話係を担当したものは、とんでもない出費に頭を悩ましたことであろうと推察する。「御巡見ニ付松山方密事聞合」にはさらに次のような記載がある。
「御用人目付類へ○印取計の節、二~三包程の菓子を平盆に盛、その下へ敷差出候、御近習より御士分も同様、御上江御酒差上の節、重詰メ四重の内、さしみ一重・つまみ物一重・酒肴一重・ぬたあえ一重。ただし酒は土ひん、御用人以下重盛ん二重」
民情視察などというシロモノではなく、まるでゆすり・たかりの類を相手とし、おまけに公儀役人であり、機嫌を損ねると殿様の地位にも関わるという心配があったから、腫れ物にさわるような取り扱いを余儀なくさせられていた様子がよく分かる史料である。