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中山町誌

第二節 昭和三〇~四〇年頃まで

  ― 改善・発展への歩み ―

 町村合併時の約束に基づき、昭和三三年一一月一日平岡地区を伊予市へ送った。三四年国鉄新線内山線の期成同盟会が編成され、内山線建設に向かって力強く動き始めた。やがて予定線となり、予算計上着工極めて明るい見通しとなった。
 三四年には福祉年金制度が始められ、老後の福祉へ大きく前進した。同年営農会議を誕生させ、営農をさらに高める布陣を敷いた。三五年の町報によると小学校入学生二二三名、新成人一七九名とある。少子時代の現在では、平成六年の入学生が六〇名足らずであり、隔世の感がある。

 農業生産活動
 昭和三〇年代の農業生産面を振り返ると、木炭生産がピーク時からそろそろ下降線を辿り始め、みかんが導入され、椎茸栽培にも新工法が工夫されて、農業に方向修正の波が押し寄せてきた年代である。

 〔木炭〕
 遠い昔より中山町農家の主要な生産物に木炭があった。広い山々はくぬぎの林で波を打っていた。そして冬場の農家の仕事として本炭生産は収入の貴い柱ともなっていた。中山町の子供たちの愛唱歌に「積み出す材木炭たき木」と歌われたのもそんなに遠い昔ではなかった。しかし、世の移り変わりのすさまじさ、現在木炭を焼くかまどの煙は見ようにもない。
 三〇年頃からか、ガス、灯油、電気等の普及により、先人が夢にも思わなかったような現在の様相に流れるように移っていった。中山町の大きな生産物だった木炭が、時代の波に押され消え去った事は淋しい極みである。

 〔椎茸〕
 食生活に欠かせない食品となっている椎茸は、中山町の重要な生産品である。栽培法がいろいろ工夫されてきたが、一大飛躍を見たのは三〇年代に入って、種駒式栽培になってからである。中山町は県下有数の生産地に成長したが、薪炭が石油等液体燃料にとって変わられた代りに、山々の櫟、楢が椎茸の原本となって活用されたのは不思議な縁とも思える。
 こうして中山町は、椎茸生産に明るい前途を夢見たが、それも長くは続かず、万事国際化の時代、中国産の安価な椎茸が輸入され、価格の下落を来たし、町内農家では生産を止めた家も続出した。しかし櫟・楢を原木とする本物の椎茸を好む人がふえつつある現在、中山町民も夢を捨てず生産に精出してほしいものである。

 〔みかん〕
 暖かい潮風の通る犬寄地区や日当りのよい小畑(梅原)地区では戦前よりみかんが栽培され、程々に収益を挙げていたようであるが、戦後三〇年頃になって大々的に導入された。
 そして中山町はみかんの大生産地に仲間入りした感があった。栽培法、品種改良等の研究も着々と実を結び、日持ちのよいみかんという呼び声で、市場を潤したが、絶対的適地には対抗し難く、また全国的生産過剰の波に押され、栽培生産を止めた農家も多数と聞いている。別の角度で研究が進めば、中山みかんを再び大きく市場に流通させることは不可能ではないとも思う。

 町行政の充実
 町も親しみやすい役場づくりに向けて住民室を設置したり、民主的行政にさらに歩みを進めたが、時を同じくして公民館活動(中央公民館、中山、永木、野中、佐礼谷)が極めて盛んに行われた。
 昭和三七年(一九六二)町農業祭が盛大に行われ、各種農業生産も大きな伸びをみせた。また町は町民の活気に応えて、一〇年後の中山町という論文募集をしたり、町誌編纂、中山音頭、町章等を広く町民に求めたり、小さい町ながら力強い動きが続けられた。これ以前、佐礼谷支所が建築された。そしてこの一〇年間は小・中学校の校舎改築が盛んに行われた。その他各種委員会や団体等がまとめられた。構成は概ね以下のようである。
 
 イ 各種委員会等
 教育委員会(教育長一、委員四)、選挙管理委員会(委員四)、監査委員(委員二)、農業委員会(委員二〇)、農業補助員(委員四八)、固定資産評価審査委員会(委員三)、国民健康保険運営協議会(委員九)、民生児童委員会(委員一六)、消防団(分団六)、公民館運営審議会(委員二〇)、区長(四八)、税務委員(四八)

 ロ 各種団体
 PTA(団体六)、青年団(連合団一、単位団五)、婦人会(単位団四)、土地改良区(理事九、監事三)、農業協同組合(理事一六、監事五)、森林組合(理事七、監事三)、商工会、遺族会、母子福祉会、身体障害者福祉協議会

 ハ 町内会(四八区)
 大字中山―長沢、泉町一、泉町二、泉町三、泉町四、福元、高岡、柚ノ木、重藤、永木、福住、梅原、平村、添賀(以上一四)
 大字出渕―豊岡一、豊岡二、東町、門前、坪井、小池、大矢、野中、影之浦、栃谷、日南登、漆、福岡、平沢(以上一四)
 大字栗田-栗田一、栗田二、栗田三(以上三)
 大字佐礼谷-榎峠、竹之内、日浦、影浦、障子ヶ谷、坪之内、村中、山口、中替地、寺野、柿谷、安別当、梅之木、源氏、越本、赤海、犬寄(以上一七)
 町内会はもともと、その発生において自主的なものとみることができるが、第二次世界大戦中を通じて、完全に中央政府の下部機構化し、中央集権の手足となっていた。このため戦後昭和二二年(一九四七)にポツダム政令により解散させられたが、二七年サンフランシスコ講和条約成立によりその組織化が自由になるや、再び急速に増えてきた。
 こうして町内会は今日では、ほとんどの市町村に組織がある。二八年以来の町村合併の結果市町村の規模が大きくなり、その自治制が末端まで行き渡らないことも大きく影響して、住民側からの自治的活動と、市町村当局からの、これを末端機構として活用しようとする意図もあって、本町においても、前記の通り四八の区に組織されている。

 三九年当時の町勢並びに財政
 イ 面積(単位平方キロ)
  宅地 〇・五七、田 二・八〇、畑 二・五七、山林 五六・八四、果樹 三・六二、その他 八・三七
 ロ 人口 八、八一〇人
   男 四、三二六人 女 四、四八四人
  人口密度 一平方キロ当り 一一七・八三人
 ハ 世帯数 一、七五〇
  農業 一、〇三二、林狩業 七九、建設 一〇七、卸小売 一六〇、製造 五七、サービス 一三七、公務 四三、その他 七五