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中山町誌

四、 佐礼谷小学校 ①

  校   歌
     作詞 森 岡 数 栄
     作曲 大 柿 かおる
一、永久にかわらぬ拝鷹の 清き流れに のぞみ立つ この学びやに 豊かなる
   学びの道を ひたすらに 高き理想を 身にしめて 日毎の業を いそしまん

二、階上山に 輝る月は 清き心の かがみなれ とぼしの森を 吹く風に
   からだきたえん すこやかに 高きのぞみを 抱きつつ 日毎の業を いそしまん

 1 明治前期の教育

 明治三年頃までは、寺野鉱山をはじめ佐礼谷各所の鉱山を開発した旧里正(庄屋)鷹尾吉循が、村に読み書きの出来ない人が多いのを憂え、安別当薬師や自宅へ附近の子供を集め、寺子屋式教育を行っていた。明治四年(一八七一)、わが国に文部省が設置された頃、自宅の傍らの一屋を至誠舎と称して、経書の素読・手習いをはじめ忠孝の道を教えると共に、農業の仕方等も講じたといわれている。
 明治九年一〇月、至誠舎を「至誠校」と改め、初代の校長・学務委員として佐礼谷村の教育発展に尽力している。
 明治八年時には、佐礼谷村に、至誠・至誠分校・旭峰の三校があった。至誠校分校は平岡に所在し、旭峰校は、現在も地区の人々が峰薬師と呼んでいることから、安別当薬師を指すものと思う。学校沿革年表には、明治一二年安別当薬師・中替地・平岡(現在伊予市)に至誠校の分校を置いたと記述されている。
 明治一五年坪之内に村立至誠小学校を創置し、平岡に分校を置いている。本校沿革史に次のような表があり、当時の様子が偲ばれる。(図表 明治一五年統計表,小学初等科,明治一五年中 学事一覧表 参照)
 当時、国や県では子弟の就学を督促したが、町村民は学校の意義を十分認識せず、労働力を失うことや学校維持の賦金、さらに授業料徴収などが重荷になっていたことと、また児童も進級試験や新しい教授法になじまず、学校を忌避する傾向があったといわれている。本村もその例外ではなく就学率は低い。しかし、明治一七年には、村中に三二坪の校舎を新築し、安別当分校を統合した。平岡分校は遠隔のため存続し、通学の便宜を図っている。
 当時のことが次のように記されている。
 「本、村中に至誠小学校新築せしは村の中央にして、児童通学の便あるを以て選定せしものなり、其建築方法は一五年甲第八七号により構造せり
 比費用金額 一五〇円
 本記別紙図面之通
  一七年四月二五日 伺の上着手
   学務委員 鷹尾 吉循
   戸  長 関屋 正章
 学校新築地免税額  地元下浮穴郡佐礼谷村
 右は佐礼谷村惣代松本丑太郎、学務委員鷹尾吉循、戸長関屋正章、願主郡長西川武久奥書、去る一七年五月に遡り除税の許可ありたり」
 新築に当たって、村民有志の寄付また就学奨励の寄付が詳細(略)に記され、関係者の並々ならぬ努力が記録されている。
 本村の戸長宮内克明は、この年村会の評決をもって、県令に校名を「佐礼谷小学校」として創置伺を提出し、許可が下りている。当時、小学校授業料について次のような記録が残されている。(図表 小学校授業料 参照)
 翌年には、「明治二〇年四月一日ヨリ佐礼谷校ヲ燈森簡易校トシ平岡ヲ分校トセラレタリ」と、僅か一年で佐礼谷小学校から「小学簡易科燈森校」と校名が変わっている。その事由として次のような記述が残っている。
 「小学校名称ハ所在ノ地名ヲ用ユベキ旨郡長ヨリ達セラレタリ」
 当時村中の三嶋神社辺りを燈森と呼んでいたことが分かる。校歌に歌われている所以であろう。

  「私の小学校時代
    とぼしもり簡易小学校」
            船田団蔵(明治二三~四年卒業)
 私は、右の小学校を三年で卒業しました。本校の概略をいいますと、所在地は、村中の岡崎商店の倉庫の裏でした。
 入学は任意で、現在とは違って就学年齢もずっとおそく、生徒も初めは少数でしたが次第に多くなりました。
 教課は、習字、作文、読書の三課目。
 先生は、城戸三夫先生、一人でした。
 校舎は、至って狭く粗末なもので、窓には四角のたる木を打ち付け出入を防ぎ、内側は障子を入れて明りを取る程度、玄関は板戸で内側にはき物を置くようになっていました。
 片すみに、大きないろりを掘っていて、生徒が登校する時に、たき木を持ちよって、暖をとったものでした。冬期は、雪降りが多く、素足に近い状態で登校するのですから、手足のこごえをいろりで暖めてから、授業に移ったものでした。
 うれしかった事は、弁当に水もちを焼いてもらった時のおいしかった事、今なお、夢にまでみるくらい忘れられません。
―中略―
 其の後、小学校は、移転の問題で混乱時期がありました。村長が退職したりいろいろありました結果、今の坪之内に移転したのです。このしこりは後々まで残り平静を取り戻すまでに一○年はかかりました……。
 私の子供時代は、今の子供たちには想像もつかない貧しいものでしたが、なつかしい思い出として今も強く残っています。

 2 明治後期の教育

 「明治二五年九月二五日ヲ以テ燈森簡易校ヲ継続佐礼谷尋常小学校卜認可平岡校ヲ大平委託トナレリ」この記録にあるように、同年「佐礼谷尋常小学校」と校名変更し、平岡分校を南山崎村大平尋常小学校へ委託した。学年も簡易科一年~三年が尋常科一~四年と延長され、教育内容もさらに充実した。読み書きそろばんに、修身科・体操科も加わり、教科書も村長権限で選定・使用されるようになった。
 明治三四年一一月二日、御真影拝戴。本月中出席児童一五五名に記念品として五銭切手が与えられている。又当夜より宿直が置かれている。翌三日、天長節祝賀式が盛大に挙行された。
 明治三六年四月、「村立農業補習学校」を併設した。入退学は随時、ただし男子で尋常小学校卒業又は同等の学力を有する者とした。
 明治三七年(一九〇四)一月、有為の青年を育成し「村是ヲ計ル」目的で「農友会」を創設。会長は校長 田中愛治郎、幹事 谷楽 一、梶原佐之治等が推挙され、会員一八名で毎月一回第一日曜日に会を開催し、小学校で農事、風俗矯正、演説講話、討論、遊戯等の事業を行っている。翌年一月には、女子教育をなす目的で、「正風会」を起こし、会長は田中、幹事は日野ササノ、亀井ナカヨが就き、会員一〇名で活動している。主として時局講話、裁縫、作法、家政、遊戯などであった。地域の教育力向上につなげたと思われる。
 明治三九年佐礼谷尋常高等小学校と改名。尋常科三学級に二年課程の高等科一学級を併置した。
 明治四一年佐礼谷尋常小学校と校名を改称。義務教育年限六年の延長(明治四〇年三月二一日小学校令改正)に伴い高等科を廃止した。学級は、第一学年、第二学年、第三・四学年、第五・六学年の四学級編制であった。
 明治四二年には、現在地(坪之内)に校地移転し新校舎の落成をみたが、時の校長福井愛蔵は、就学について次のような記録を残している。「本年度ヨリ尋常科五学年卜就学ノ義務生ジタルタメ就学督励ニ非常の困難ヲ来セリ」と。明治の終わりになっても、子女の家事労働に果たす役割や教育費の家庭に及ぼす影響が就学を阻害していたと思われる。当時の学校経費は次のとおりである。本年度より平岡部落の委託廃止。(図表 学校経費 参照)
 この年度から修学旅行が実施された記録が残っている。(図表 修学旅行 参照)

  「七〇年前の思い出」
            影浦菊太郎(明治四四年度卒業)
 私が物心付いた時は、明治四〇年頃と思います。その当時、平岡部落に佐礼谷小学校平岡分校がありました。私か六才の時、親の願いが叶ったのか、平岡分校に入学をさせてもらいました。その頃、一年生入学は満七才がくると入学ができました。私は本当は来年が一年生ですが、親の願いで、私と他に、女の同級生二人が入学を許されました。そのころ、義務教育が四年であったと思います。私たち同級生三人は、一年生として入学し、教室は一部屋なので、一年生~四年生までの生徒が一緒に勉強をするのでした。それで先生は一人です。その当時の先生は、南山崎唐川の、氏神様の神官で、その姓名は武智先生(武智盛満先生)と記憶しております。私たちは、遊んだり勉強をしたりしてやっと一年間が終わりました。終業式となりましたが、私たち同級の三人は、一年生の終業証書を頂くことが出来ません。がっくり悲しい終業式でしたが、今考えて見ると、現在の幼稚園の様なものであったと思います。私たちは、家にいて悪い遊びをするよりは学校へと、親が先生に頼み、無理に入学をさせてもらったのだと、後で母から話を聞きました。
 やはり年が足らぬ為、一年生を二回やりました。そんな事があった年に、分校が廃校になりました。佐礼谷本校へ行くはずなのに、本校は、学校の敷地問題で村がもめてどうにもならず、村長さんでさえ、村の村長では行政にならず、県事務所より出張し、行政を行っていたと記憶をしております。その様な関係で本校に行けず、私たちは、南山崎小学校に行く事になったのです。
 三年生の夏休みまで南山崎小学校にて勉強して、二学期より佐礼谷小学校へ行く事ができたのです。その年、村中にあった本校が、今の所に移転されました。私たちもお手伝いをしました。そうして、現在の位置の学校で卒業ができました。その後、尋常高等小学校が出来て高一に入学いたしました。一年で中退して青年団に入りましたが、その当時各部落に教員住宅が出来て夜学校が始まりました。平岡へも本校より先生が出張され、色々な事(珠算、カルタ、習字、読書)を教えて下さいました。今の集会所が現在の天神社にあり、教員住宅としてあちこちより先生がこられ、熱心に勉強を教わりました。
    (昭和五三年一月発行「母校一〇〇周年」より)
 明治四三年高等科併置し、再び佐礼谷尋常高等小学校と改名。雨つばさ(走へんに羽)部落の児童は、通学が遠隔のため広田第二尋常小学校に委託(委託金三六円)となる。
 明治四三年一〇月一九日秋季大運動会実施。従来、運動場が狭く遠足運動が主であったが、校地の移転で運動場も広くなり、遊戯運動会が盛大に出来るようになった。当日は、地方祭の翌日で観衆も多く、学校も中山・高市・栗田・野中の四校が参加した。
 また、本年度より学芸会も開催している。

 3 大正時代の教育

 大正六年佐礼谷農業補習学校を佐礼谷実業補習学校と改称し、女子部を設置した。中替地・安別当・梅之木・平岡の四部落に分校を置き、学習の便宜を図った。
 大正八年(一九一九)六月、文部省令により佐礼谷実業補習学校を佐礼谷村実業補習学校と改称。生徒は予科二年、本科二年に分けていた。当時の生徒数は次のとおりである。
 大正八年四月 男四三、二一計六四人 女四、二計六人 七〇
 しかし、「微々として補習教育は振はず、村有志、青年の自覚を要す」と、実業補習学校の前途を憂えている。
 大正一〇年一二月には、再び元の佐礼谷農業補習学校と改名し、校則変更して、補習校振興に努力している。時の校長奥田芳行は、「沿革史上特筆すべき事」と記し、「経費三三九円の予算なれども、奨費に大不足をみ、他より流用す」。また、「本年度は建設の年、来年度は充実の年、一般青年も職員も自覚せる所なり」と、その苦労と成果を書き残している。
 奥田校長は、大正一〇~一一年度の小学校の経営についても次のような評価を残している。
  大正一〇年度 校紀其他ニ関シ改善努カセル事項
一、窓ガラス破損ニ関スル規定励行
二、日直殊ニ休暇直励行
三、清潔及真ノ自治及誤レル自治ヲ明瞭ニシ指導セル事
四、運動会以外毎月体育会励行ノコト
五、考査簿用紙其他月行事様式変更
六、形式ヨリモ実質ニ重キヲオクコト
                (大正一一年三月三一日)
  大正一一年度 校紀其他ニ関シ改善努力点
一、学校教育方針ノ確立
二、体育会ノ毎月励行
三、自学自習ノ良習養成
四、職員勤務ニ関スル粛刷
五、実質主義及学校ニ対スル責任感ヲ一層大ナラシム
六、細目、週案其他新様式制定
七、学校ニ対スル卒業生ノ愛着心養成及文化、人事相談の中心トナルコト 
          (大正一二年三月三一日)
 なお、奥田校長は、社会教育にも力を傾け、各部落で幻灯講話会、青年総会、女子青年団の発会、敬老会の発会等々を催し、地域の教育向上に努力している。

 4 昭和前期の教育

 昭和一二年七月、蘆溝橋事件勃発、日中戦争に拡大。国内は、国民精神総動員の体制下に入り、本校においても、国威宣揚祈願や非常時訓練を行うことが多くなった。例えば、早朝神社参拝、戦時美談の訓話、国防献金、慰問文・慰問袋の製作、遺家族訪問と労力奉仕、毎朝の出征兵士見送り、心身鍛練が教育活動の一環として課せられた。
 昭和一三年八月には、校地の大拡張が行われた。この工事は、校地を旧位置より六尺掘り下げ南西に拡張するもので、校舎を二棟共引下げた。総工事費は約八、〇〇〇円で、現在の校地とほぼ同じ広さとなった。翌一四年三月盛大に落成式と祝賀会を催した。
 昭和一五年戦火は拡大し、国を挙げて戦時一色の様相を呈し、学校教育も国民精神総動員の下、体位向上・心身鍛練が一層強調された。全校鍛練運動と称して、三時限終了後二〇分間、体操・徒歩・駆け足・団体行進等の訓練が毎日行われた。
 時の村長篠崎重通は、佐礼谷壮年団の団長として、農村教育の根本は報徳精神であると団員に働きかけ、二宮尊徳銅像の建立を発議し、団員の寄付と労力奉仕によって、昭和一五年五月一〇日、校舎玄関前に建立、除幕式を行った。所要経費は三九六円であった。
 現在、校長室にある歴代校長の写真掲額も昭和一五年度が最初である。沿革史によると、同窓会会員の寄付で、高等科併置、現校地移転(明治四二年度)後の歴代校長の引伸し写真を掲額したとある。
 昭和一六年、国民学校令の施行によって、校名を佐礼谷国民学校と改称、尋常科は初等科に改められた。このころ高等科の生徒は、満蒙開拓義勇軍に召集される者もいた。鉄・銅・アルミ等の日用品も回収され、昭和一七年一月には、金次郎の銅像も献納を余儀なくされた。しかし、翌年五月九日、陶器製の金次郎像が壮年団の寄付によって再建された。昭和一九年二月二六日には、津田徳市の寄付によって、奉安殿が築造されることになり、同年九月二二日竣工した。

 5 昭和後期の教育

 昭和二二年四月一日には、校名が佐礼谷国民学校から佐礼谷小学校に改められ、六・三・三制の新しい教育が始まった。
 また昭和二四年五月九日PTA理事会・学校参観の記録が残っている。
 昭和三〇年二月一日中山町との合併により校名が中山町立佐礼谷小学校と改められた。
 昭和三六年一〇月二三日には、愛媛県教育委員会指定の器楽教育研究会が開催され、郡内外から参加した約八〇名の先生方に日頃の成果を発表した。一一月三〇日NHK松山放送局が器楽教育の実態を集録に来校し、一二月一二日昼の番組で放送された。
 昭和四三年七月三日、待望のプールが完成、昭和四五年度卒業の二宮久枝が「母校百年」誌に当時のことを回想して、次のような文を寄せている。
 「(略)……でもやっぱり私にとって小学校時代の一番の収穫は〝泳ぎを覚えたこと〟なんです。
 プールが学校に出来たのは、私が四年生の時。保育園の裏の広っぱ。あそこには春、おっきないたんぽがたくさん出たんだけど……。でもプールのためだからいいや、と思いました。
 それまでは、川で泳いで、というよりは水遊びをしていました。川の水は冷たくて気持ちがいいけれど、プールの方がやっぱりいい、広々としています。……(略)」
 昭和五一年一〇月一六日、「ふるさとに生きる」の碑を建立。建立の経緯は不明(寄贈北岡博、栗田昭の兄弟)
 昭和五二年六月二五日、屋内運動場の建築が決定。翌年一月二六日落成の式典を行う。時同じくして、創立一○○周年記念事業も行う。
 昭和六三年三月二三日、新装なった鉄筋コンクリート三階建ての現校舎が落成。昭和三一年建築の校舎が老朽化したことが建築の理由と思われる。

佐礼谷小学校 校歌

佐礼谷小学校 校歌


明治一五年統計表

明治一五年統計表


小学初等科

小学初等科


明治一五年中 学事一覧表

明治一五年中 学事一覧表


小学校授業料

小学校授業料


学校経費

学校経費


修学旅行

修学旅行


佐礼谷小学校配置図

佐礼谷小学校配置図