データベース『えひめの記憶』
中山町誌
二、 相互扶助
相互扶助は、村落成立の過程より自然発生的に生じた気風である。建て前・婚礼・出産のような祝いごとから、火災・水害・山崩れ・重病人や葬式のような不幸ごと、または農作業に至るまで、あらゆる機会に協力し合ってきている。この共同作業は、引合い(隣組と同義)が基本的単位となって行われてきた。
冠婚葬祭
地域により、また、時代と共に変動があるのが実状である。「郷に入っては郷に従え」が通用する部分であろう。
総じて結婚式には引合いは関与しないが、葬儀に関しては責任を持つようである。「遠い親戚より近くの他人」と昔から言われるように、親戚間の付き合いより引合い仲間の付き合いの方が強い地区もある。
労働慣習
相互扶助の立場から、労働関係についても一つの慣習ができ上った。屋根の葺き替えや改築の手伝い、田植・秋の収穫等見返りのない「コウロク」と呼ばれる作業や、道作り・川そうじ等全戸が出るべき「デブ」と呼ばれる作業もある。
その他に、多忙な時期がずれる家同志で労力を交換し合う「テマガエ」というものがある。これは、田植、栗・みかんの収穫時などに行われた。これらの労働交換は、主として、十人組内で行われた。
共有地・共有財産
現在では共有地はだいぶ少なくなってしまったが、昔は「クミヤマ」と呼ばれる山が主となる共有地があった。
永木にあった「クミヤマ」は相当広い面積であったが、永木が三つの小組に分かれたため三分割された。主として牛の飼料畑として利用されていたが、日露戦争当時に経済的な面より個人所有となった。売却してその配当により畑を購入した人もある。
福住の「クミヤマ」は、「船ヶ迫の地蔵さんの山」、「河の森」など三ヶ所あり現存する数少ない「クミヤマ」となっていて、杉や檜は地区の財産として区長により管理されている。
秦皇山の「観音様の共有地」は、小池・大矢・野中の三地区により共同経営されている。この観音様には基本財産として、付近の山等があり相当な面積を持っている。三地区より大世話人・小世話人を出して経営し、観音様に関する修理の費用などに使っている。
安別当の「お薬師さんの財産」は農地開放によってなくなった。
頼母子講
講には大きく分けて、経済的な頼母子講と民間信仰による講がある。後者の講については民間信仰の部において取り上げるのでここでは前者について述べることにする。
銀行・農協など金融機関が整備されていない時代には頼母子が、金融機関の役目を果していた。講の構成は、ほぼ一〇人から一二人位が多かったようである。同志の人によるものや地区単位でまとまったものもあるが、中山町の各地区で行われていた。
頼母子は、経済的相互扶助に基づくもので、金を借りたい人が、「親」となり自宅で頼母子を開いた。講員全体で金を掛け、最初は「親」が設定金額の満額を受けとり、次回からは金の必要な講員が入札により、多少とも少ない金額を受けとる仕組みである。その差額が講員の配当となった。
永木地区では、「親」のことを「モトドリ」といった。まだ金を借りてない人は、配当により掛金が順次減っていく方法をとった。栃谷地区には、労働で返す「労働頼母子」もあった。