データベース『えひめの記憶』
中山町誌
二、 副食物
明治時代の副食としては香物・お汁・たくあん・味噌・梅干などで、春から夏にかけては、きゅうり・なす・秋から冬にかけては、たくあん・芋・南瓜・里芋・大根を用いた。祭日などの来客用として豆腐を作るのが最大のご馳走であった。醤油や味噌はほとんど自家で醸造していたが、明治中期にこれらが販売されるようになり、また、明治三〇年代になると牛肉・豚肉も販売されはじめ食するようになった。お汁には「だしいりこ」を入れるようになり、来客用としては鰹節を用いることもあった。この頃から料理に油を使うようになり、一般的な家庭で一年間に一升以上使用したようである。
明治四〇年代に入り缶詰類が出始めて、牛肉・鰯・鮭・貝類のものが来客用として用いられた。つづいてパインアップル・ミカン・桃など果物の缶詰も販売されるようになったが、これらはほとんど病人食用のものであった。
なお、この頃には牛乳の需要者も出て乳児用・病人用として用いられた。
日露戦争後は食生活も向上し、魚貝類も多く出廻りはじめ、砂糖の消費も増加したようである。また大正時代になって、天ぷらを作るようになった。大正八年頃には好景気となり、生活も華美となって、煮魚・サシミを料理に付ける家庭が多くなった。
昭和時代に入り農家の食生活もようやく向上し、香物も白菜と変り、タクアンを漬込むとき色粉や、サッカリンを糠に混ぜて美味しいものが出来るようになった。各種の鮮魚が出廻り、冠婚葬祭などには多く用いられるようになった。
なお、戦時中食料の不足は甚だしく、最も不足したのは塩と砂糖で、当時貴重品となったのである。昭和二五年には馬鈴薯が自由販売になり、うどんや副食物は自由に求められるようになった。やがて米の生産も盛んに行われ、副食物も肉・魚・油・卵など豊富になり、カロリーだ、栄養だ、ビタミンだ、健康食だと戦前に比べて非常に向上してきた。
調味料
調味料としての味噌・しょう油、副食物としての「ひしお」は自家製であった。夏の終りころ、味噌こうじをつくり、大豆を煮て味噌豆とし、混合して臼で搗き、味噌にしていた。しょう油は、しょう油用のこうじからつくった。
食物の保存
甘薯は床の下の芋つぼに籾殻を入れて貯蔵、輪切りにして天日乾燥して粉にしたり、蒸して輪切りにし干して「ひがしやま」を作ったりした。里芋は南向きのあどぎしに穴を掘って藁や籾殻で囲い、雨が入らないように土で囲って貯蔵したが、今日でもこのような方法で保存している農家は多い。
大根・人参・牛蒡などは土に埋めて年を越させた。大根は乾燥して干大根・千切大根をつくったが、最近は既成品の出廻りによって、作る農家は減少している。
多くの家庭では、干ぴょう・干椎茸・搗架・干柿などの農作物や煮干・昆布・わかめ・鹿尾菜・鯣・数の子など海産物の中いずれかのものを保存用として常備していた。塩漬・砂糖漬・酢漬・酒精漬の工夫もした。沢庵漬・味噌漬・さば・いわしなどの塩物・梅干・辣韮・粕漬などもあって季節のはざかいに利用した。