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中山町誌

大塚 節治 (おおつか せつじ)

 氏は明治二〇年(一八八七)三月三日、広島県の沖田惣左衛門の六男に生まれ、一六才の春迄広島の実父母の下で育った。
 明治四五年中山町泉町三丁目大塚精一氏宅へ養子として迎えられ、中山町に籍を置いた。一五、六才の間広島師範付属講習部にて小学校准教員の教育を受けその資格を得た。明治四二年三月同志社普通学校を卒業し、同大学神学部に進み、三年一学期終了にて米国に留学した。大正四年米国ユニオン神学校を卒業し神学士の学位を受領、同年コロンビア大学より文学士の学位を受領した。帰国後同母校同志社大学に勤め、大正一三年九月より七ケ月間同志社大学在外研究員として仏国に留学し、宗教哲学を聴講した。昭和二四年一一月同志社大学より文学博士の学位を受領した。昭和二五年一月より二七年三月迄同志社大学長に就任、同じく昭和二五年八月より同志社総長に推されて三八年一一月一〇日まで四選の長期にわたり、同志社一門一〇校の責任者として、学生の教育と経営に当たった。(学長とは大学の校長の事。総長とは同校一門―大学、女子大学、高校・中学校・幼稚園―の全責任者を言う)。
 氏は宗教哲学にその精力を注ぎ刻苦勉励博士号を得たばかりでなく、大学総長に一三年余り推されたのは、非凡な才能の上に、極めて公平寛大で抱容力を持ち、大学経営に必要な手腕の持主であったことを知ることが出来る。昭和三九年一一月三日勲二等に叙せられ、端宝章を授与された。その後、昭和四七年一一月二九日、同志社大学から名誉神学博士の学位を受け、昭和四八年一〇月一五日、京都市の名誉市民となった。昭和五二年三月九〇歳の誕生日を迎えたが、同年一一月一八日、京都で他界、同志社葬がとり行われた。