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中山町誌

山本 義雄 (やまもと よしお)

 大正七年(一九一八)九月一六日中山村大字中山巳二二〇番地(重藤)に生まれ、昭和六年三月永木尋常小学校を卒業、同八年三月郡中高等小学校を卒業した。同一一年松山市に山本酒店を開業。同一七年五月葉桜の下で見合いし、自ら作った鶴亀などの結納品を贈って晴栄と結婚。同二八年株式会社松山酒館を設立後、四国及び中央の酒類業界の役員を歴任し、業界振興に貢献し、同五八年国税庁長官表彰を受けた。酒類業界振興功労者。
 昭和二一年松山洋裁女学院(現松山女学院専門学校)を創立後、松山デザイン・松山歯科衛生士・松山コンピューター・松山情報ビジネス・松山医療福祉の各専門学校を設立。学校法人山本学園として理事長・会長となり、全国専修学校・全国各種学校総連合会副理事長などの要職に就き文部大臣表彰を、昭和五一年には藍授褒章を受けた。
 重藤に住み永木小学校に学び、また終戦前後を生地に疎開したことなどから中山町への思いも強く、松山洋裁女学院の建築資材は中山町で伐採・製材し、設計施工も中山町の大工であった。重藤区集会所改築(前回)には全額を寄付した。昭和六三年松山市に住む中山町出身者七〇〇余人を会員とする中山ふるさと会を設立、推されて会長となり、中山町のふるさと創生事業にも多くの事績を残した。
 社是の「業を育て幸運の道をひらく」社訓の「決断と実行」学園の校訓「きびしく やさしく ていねいに」は、本人の生きざまであり、昭和六一年人生の記録を『炎の人生』として発刊した。平成五年、勲五等瑞宝章受章、同七年、正六位に叙せられる。平成七年三月一日没、享年七六歳。戒名・瑞龍院義照大機居士。