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双海町誌

第四節 大洲藩の成立

 大洲の地は鎌倉末期以降、宇都宮氏の所領となっており、歴代の領主は地蔵獄をその居としていた。
 その後、宇都宮氏が衰亡すると、菅田直之が領主となり、直之が敗れた後、一五八七(天正十五)年からは戸田勝隆がこの地を治めた。一五九四(文禄三)年に勝隆が病没すると、藤堂高虎が大洲板島七万石に封ぜられた。高虎が板島に移った後、一五九八(慶長三)年から一六一七(元和三)年まで脇坂中務少輔安治が統治、安治が隠退した後はその子安元が跡を継ぐが、直後に信濃国飯田五万五〇〇〇石に転じることとなり、代わりに加藤左近太夫貞泰が伯耆国米子から転封、六万石を領し、その後は貞泰の子孫が代々領地を受け継いでいった。
 領地の内訳は、「喜多郡内八三ヶ村・浮穴郡の内五五ヶ村・伊予郡の内一七ヶ村・風早郡の内六ヶ村・摂津国武庫郡の内二ヶ村・計六万石半言々」(寛文知集による)とあり、双海地域の高野川村・上灘村・高岸村・大久保村・串村は、全て大洲藩に編入されていた。


加藤氏略系

加藤氏略系