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双海町誌

第三節 大正・昭和前期

一 経済の危機と軍部の台頭
 明治には、憲法をはじめ諸制度が制定され、重工業の基礎が確立し、海外貿易も盛んになった。一九一四(大正三)年の第一次世界大戦において連合国側として参戦、戦勝国となったことで日本経済はインフレとなり、概要の記述どおり国民の生活はしだいに苦しくなっていった。
 大正七年、ロシア革命への干渉を目的としたシベリア出兵に際し、軍用米の政府買い入れを見越した米商人が米の買占めを行った。その年はもともと天候不順で米の不作が予想されていたので、一・八リットル(一升)二三銭が八月には二倍以上の五〇銭になった。そして八月三日、「他地方への米の売却・移出禁止と米の廉売尽力方要請」の要求をかかげて富山県西水橋町漁民の主婦たち三〇〇人が決起した。この「越中の女一揆」を契機に、全国的に米騒動が波及した。
 県下では、八月十四日午後八時、郡中町(伊予市)湊町を中心に最初の米騒動が発生した。漁民たちを中心とするこの勢力は、郡中署長以下巡査(後の警察官)の制止をも聞かず、米屋や酒屋を打ち壊し、米を路上にまき散らし、空俵に火をつけて荒れ狂ったが、午後一一時、県警の出動によってようやく鎮圧された。この騒動によって一九戸の米屋が被害を受けた。
 続いて、その翌日の十五日には松山市で暴動が発生。憲兵や松山歩兵連隊から軍隊三箇中隊が出動し、主要な通りを示威行進した。また、松山連隊が夜間演習をして暴動の波及を防止した。
 これらの暴動について、八月二十七日付の愛媛日報(愛媛新聞の前身)は、「今回の暴動は単に米価の問題のみにあらず、一方的戦争成金に対する大衆の不平・不満の爆発なり」という見解を載せている。
 翌大正八年には、全国的に株への投機熱が広がったことで過剰生産恐慌が相次いだ。更に一九二三(大正十二)年には関東大震災が発生、大正十三年には新居浜の別子銅山で労働争議が勃発、経済不安は思想的不安を誘発していった。
 こうした流れの中で、国粋(国家)主義がしだいに台頭、軍部と結託することで、軍国主義が急速に進行していった。一九三一(昭和六)年の満州事変以後、五・一五事件、国際連盟脱退、二・二六事件、そして盧溝橋事件と、日本陸軍首脳部による大陸侵攻策を至上とする現地の日本軍は暴走を重ね、ついに日中戦争へと発展、戦線は大陸に拡大した。
 国内においては、一九三八(昭和十三)年に国家総動員法が施行、大政翼賛会の結成を経て、政党政治は名実ともに中断となった。
 昭和十六年には、それまで慎重だった海軍も戦争体制を整え、ついに米・英に宣戦、太平洋戦争に突入した。そして四年の後、おびただしい犠牲のもとに敗戦、軍国主義も終わりを告げたのである。

二 行政の変遷
 大正時代、物価の上昇や農村の疲弊といった不安定な社会情勢のなか、郡役所の出先機関的存在であった町村は、独自の財力も対策も非常に乏しかった。このころから産業の振興策として、網による新漁法や養蚕、晒蝋作りが盛んになったが、それはむしろ特定の個人に支えられたものであった。
 一九一八(大正七)年、平民宰相といわれた原敬が、日本最初の本格的政党内閣を組織した。同年には、それまで村財政の過半額を占めていた義務教育費を国と市町村が分担する制度が制定され、財政的負担が軽減されることとなった。大正十年、上灘村が町制を施行、盛大な祝賀行事が催された。電灯の設置が行われたのもこの時である。
 こうしてしだいに町村の行財政能力が充実してきたので、大正十二年、郡役所が廃止され、町村行政は県に直結となった。同時に各制度が改正され、町村の自治権が若干拡大されたものの、中央集権下における上意下達の仲介的末端機関としての町村であることには変わりなく、自治体にはまだほど遠い状態であった。また、委任事務が増加したことによって職員や歳出が増加し、結果的に町村諸税の増税を余儀なくされた。更に、軍国主義政策が進むとともに、軍備拡張、軍需産業の育成に国家財政を傾注するしわ寄せが、県・市町村・集落・隣組・住民へと波及した。
 そして、一九三七(昭和十二)年の日中戦争の勃発以後、行政機構は完全に戦時体制となり、当町もそれに追従する以外に道はなかった。
 役場職員は徴兵事務や戦場への動員令などの作業に追われ、動員下令があるごとに昼夜を問わず召集令状をその家まで持参した。また、戦死公報を「御名誉ある御戦死おめでとうございます」と遺族に伝え、その遺骨を迎え、町村葬に明け暮れることとなった。更に軍用木材の搬出指導、物資が相次いで統制されるなかでの配給用務など多忙を極めた。夜間は紙芝居や幻灯機を携えて地域を巡回し、軍命令の伝達や戦争の正当性・一方的な戦果報告、そして「神国大日本帝国は必ず勝つ」と説いて、莫大な戦争国債を消化し供出米を確保した。
 至上命令とはいえ、そのころの町村行政は軍政への全面的推進機関となっていたのである。
 敗戦目前の昭和十九年ごろからは、住民に防空壕を作らせ、避難訓練や防火方法を指導した。また、空襲に備えて役場に防空監視所を設け、ラジオ放送と併せてサイレンで住民に警報した。
大正・昭和前期の行政機構は次のとおりである。
  ・執行機関……町村長・助役・収入役・書記(集落区長・隣組長)
  ・議決機関……町村議会
  ・推進機関……大政翼賛会・学務委員会
  ・協力団体……在郷軍人会・消防組・翼賛壮年団・青年会・青年団・少年団・女子青年団・国防婦人会・大日本婦人会・集落常会・隣組会・農会・産業組合・漁業会・森林組合

三 大戦下の郷土
 出征兵士
 出征大要は、まず前日か前々日に動員令書が手渡されると、親族や知人に連絡し、内輪での酒宴が行われた。そして翌朝家族に別れを告げ、親族や集落の仲間と神社に参拝して武運長久を祈願した。そのままのぼり旗を先頭に列をつくって駅に到着すると、町村長の激励の挨拶があり、出征兵士は誓いの言葉を述べた。町村長の万歳三唱に、日の丸の小旗を持ってつめかけた町や村の首脳者、在郷軍人、青年団、婦人会、小学生たちが唱和し、旗の波と歓呼の声に見送られて兵士は出征して行ったのである。しかし、太平洋戦争の激化とともに、秘密裡に故郷を発つ兵士が増えていった。

遺骨迎え
 戦争の拡大激化とともに、当然戦死する者も増えていく。遺骨を迎えるときは、当日黒布をつけた国旗や半旗を掲げ、出征時とほぼ同数の人々が駅まで出迎えた。路上の両側に整列して深く頭を下げる郷土民のなかを通り、妻や肉親の胸に抱かれた白木の箱は、生まれ育った家の仏壇に安置されることとなる。
 この悲しみに耐え切れず涙を流すことは、たとえ妻子や肉親でも恥とされていた。やり場のない悲しみをも敵愾心とするほかはない時代であった。

町・村葬
 戦死者の葬儀は町村が主催するもので、小学校の校庭において厳粛盛大に執り行われた。遺族はもちろん、多くの町・村民や小学生も高学年は全員参列し、それぞれ代表が焼香して冥福を祈り、銃後の守りを誓った。また、当日は町・村全家庭で弔旗を掲げた。
 やがて戦争は世界相手の太平洋戦争に発展し、戦局が進むにつれて戦死者も激増した。やむなく町・村葬も数体合同で行われることが多くなった。

興亜奉公日
 一九三九(昭和十四)年から、国民精神総動員運動の一環として毎月一日が興亜奉公日と定められた。その日は早朝から各戸一名以上が参加して、氏神やその末社に参拝して出征兵士の武運長久と日本の勝利を祈願した。「一億一心・滅私奉公」といった言葉が生まれたのもこのころであった。太平洋戦争開戦後には、大詔奉載日となった。

千 人 針
 出征兵士に欠かせない持ち物として千人針があった。これは女性が白木綿に赤糸で一人一ふし宛千ふし刺繍したもので、女子青年団員や婦人会員たちが、白布と赤糸を通した針を持ち道行く女性に協力を求めた。一人一針が原則だったが、寅年生まれの女性は、その年齢数だけ刺繍できる特例があったのでとても尊重された。
 更に兵士達は、五銭は死線(四銭)を越えるという意味を込めて千人針の中央に五銭硬貨を縫い付けた。そしてそれを腹に巻いて戦場に向かったのである。

当時の服装等
 まず、男性は軍服に似た青黄色の国防服(後年菜ッ葉服と称した)を着用した。作業中は地下足袋にゲートルを巻き、必ず腰にタオルを挟んでいた。戦争が激化すると、その作業姿のままで会議をし、汽車にも乗った。なお当時、長髪は例外的存在だった。
 女性の服装は和服で、その上からモンペをはくのが標準服とされた。生地は木綿が多かったが、外出や会合時には、上布製の和服を作り直して着用する女性もあった。髪は後部で簡単に結んでいた。このころはあちこちに「パーマネントは敵だ」というポスターが貼られていた。
 この時代、結婚式もこういった国防服とモンペ姿で挙行することが奨励されていた。
 また履物は、しだいに地下足袋や布靴が不足するようになったため、多くが手製のワラ草履を着用するようになった。

配給・切符制度
 この時代、酒やタバコはもちろん砂糖、醤油等の調味料からマッチ、石鹸に至るまで全ての生活物資や生業物資が配給制度となった。
 また、米麦等の主食は切符制となった。一日一人、あるいは一年にいくらか宛の切符が交付され、それを持参し現金と合わせて点数量の品物を買った。年ごろの娘等を持つ者は、衣料切符を買ったり、米麦等とひそかに交換した。
 しかし、配給・切符は戦争の激化につれて、その量が著しく減少し、質も悪化した。そのため、米ヌカやミカンの皮で石鹸の代用としたり、トウモロコシの茎を煮て作る自家製の砂糖、カンコロ餅など、乏しい物資の中でどうにか生活を成立させようと皆努力した。軍部や役場は「欲しがりません勝つまでは」とさかんに指導していたが、実情はこのように極限に近いものであった。

強制供出と国債
 戦時中は、米麦やサツマイモ・ジャガイモの強制供出が繰り返され、桑畑なども次々と麦やサツマイモ畑になっていった。昭和十六年七月には森林組合が組織され、軍の命令による材木の伐採・搬出が強行された。作業には農民だけではなく、一般民や漁民までもが従事した。
 こういった作業を完遂すると地下足袋やマッチ、酒などが少量「特配」され、命令通りにしないと「国賊」と言われたのである。
 また、莫大な戦争国債も集落ごと戸数や資力に応じて割り当てられていた。こうして住民たちは、国債の消化や供出、物資の受領などのため提灯の明かりを頼りに集会を行っていた。

大詔奉戴日
 昭和十六年十二月八日に太平洋戦争(当時は大東亜戦争と称していた)開戦の詔勅があったことにちなみ、以後毎月八日を大詔奉戴日とした。
 この日は神社に参拝したり、学校では軍事講演や訓練が行われた。また、戦死者の遺族の家業の手伝いなども実施された。

イモ作り
 米や麦などが不足していくなか、重要な食糧となったのがサツマイモである。サツマイモは、蒸して主食に、煮詰めて「イモ飴」に、粉にして「カンコロ餅」や「イモ菓子」、ひそかに「イモ焼酎」にもなった。しかも、肥料や消毒などなくても非常に栽培しやすい作物なので、人々は山の平地部や庭先や路、鉄道端にまでサツマイモを植えて、栽培に励んだ。小学生も授業を休み、学有林などでサツマイモ栽培に従事していた。
 戦中戦後の食糧難時代において、郷土だけでなく、日本人は皆、サツマイモに命を救われたといっていいだろう。

竹槍訓練
 太平洋戦争では、ミッドウェー海戦での敗北を機に日本は制海・制空権をほとんど失い、反撃に転じたアメリカによって日本全土は激しい空襲に見舞われるようになった。
 軍部は本土決戦を叫ぶようになり、そのための対策として、郷土に残っている老人や婦人を対象にした竹槍訓練が開始された。当時軍部は「一人一殺」や「一人が敵十人を斃せば百人で千人の敵に勝つ」などという、空虚な精神論を全国民に強要していたのである。
 訓練は、小学校の校庭において老兵や軽傷軍人の指導の元にれわれ、夫を戦場に送った婦人たちは手製の竹槍をかつぎ、モンペに防空頭巾姿で訓練に励んだ。もちろん実際の戦場で近代火器の洗礼を受けていたはずの在郷軍人が、本気で教導していたのかは疑問である。

学校報国隊
 太平洋戦争後期、戦争による労働力不足を補うため、現在の中学校に当たる小学校高等科の生徒たちを中心とした学校報国隊が組織され、工場での作業や防空壕作りに当たった。また、女子生徒は「女子挺身隊」を組織していた。

塩   田
 食糧難で米麦がなくなってもサツマイモがその代わりとなり、砂糖や醤油がなくてもなんとか生活することはできたが食塩には困った。
 灘町五丁目の北東部海岸に、約一ヘクタールの塩田があった。分厚く敷き詰めた洗砂に海水を繰り返して散水して濃度を高め、それを掻き集めて製塩した。
 海岸部に広い用地を持たない集落は釜場を作り、海水を大釜に直接汲み込み、煮詰めて食塩を作った。この塩水汲みや薪の採集などは、それぞれ順番で担当した。後に池之窪集落等では、特定者に賃金を支払って塩製造を委託していた。
 戦後も二・三年間は、これらの製塩が続けられた。その跡地は、昭和中期まで数筒所に残存し、大戦前後の苦しみを伝えていた。

釣り鐘召集
 戦時中は貴金属の政府買い上げや、砲弾等の原料確保のため、銅・鉄製品の強制供出が実施された。後には寺院の釣り鐘も供出の対象となり、無言で召集に応じることとなったが、戦災で輸送等が難航している間に終戦を迎え、相当数の釣り鐘は無事生還することができた。

空襲警報
 一九四二(昭和十七)年、東京で米軍による最初の空襲があった。それから終戦までにほとんどの都市が爆撃を受け、焼け野原となった。
 こうした空襲に備えて、各戸には防火用水や砂袋(油性爆弾用)、バケツが常備され、防空壕作りや防火・避難訓練も繰り返し実施された。郷土では、小網・城之下・灘町・上浜・下浜などの民家が密集した地域において特に念入りに行われた。
 昭和二十年になると、連日のようにラジオが空襲警報を告げ、役場のサイレンが不気味に鳴り響いた。
 空襲警報が出されるたびに、小学校では週番の生徒が「総員退避」を告げ、子どもたちはやせ細った体で学校裏の防空壕や退避所に駆けて行った。また、都会で焼け出され、親族を頼って逃れてきた子どもも日ごとに増えて行った。このような毎日のなかで、「日本は神国であるから最後には必ず勝つ」と教え続けてきた教師たちの声も力を失っていくのだった。

小網地区へ爆弾
 一九四五(昭和二十)年春ごろの夜半過ぎ、中国方面を空襲して帰りの米軍機が、小網集落南方の山中へ爆弾を投下した。厳重な灯火管制下にもかかわらず、どこかが明かりをもらしての誤爆か、残弾処理かは不明である。幸いにも降雨後だったので山火事は発生しなかった。
 その年の冬、北風百太郎は、集落裏の強羅と呼ばれる持ち山へ薪を取りに行ったところ、大穴が開き周りの木々が大量になぎ倒されていて、大変驚くとともに一目で爆弾の跡と分かった、と伝えている。

米軍機による銃撃と松山空襲
 郷土においては、昭和二十年七月、上灘駅・下灘駅及び下灘村役場付近で空襲があったが幸い死傷者は出なかった。また、三月二十五日には、郷土の上空で松山の吉田浜航空基地を発進した日本海軍機と米軍機の激しい空中戦があり、敵味方数機が海上や中山町方面へ墜落した。
 更に七月二十六日午後九時、B29約五〇機による松山空襲があった。衣山と松山城付近の高射砲が若干応戦したものの、敵機は全域を爆撃、市街地の大部分を焦土化した。この空襲後、双海地域の警防団員や在郷軍人が松山市の焼跡整理に二日間出動した。

松根油と松脂採集
 住民たちは軍部の命令によって、伐採した跡の松根を掘り、それを加熱して松根油を採る作業に従事した。これを精製して軍用燃料とするためだった。この作業には、戦争末期に入隊した若い兵士や補充兵たちも郷土の小学校などに分宿して携わった。
 このころには既に、乗る軍艦や飛行機はもちろん小銃すらも不足していた。
 また同様の目的で、松脂も採集され、このため、神社などの老松までもが鋸目を入れられた。この時の傷跡は後々まで残り、大戦の苦しみを人々に伝えた。

床下の土
 終戦間際には、便所や古い家屋の表土を採集して供出せよという命令まで出された。土のなかに含まれているごくわずかな硝石を火薬の原料にしようとしたといわれているが、戦争末期の窮状と、軍政の狂気を物語る一事例といえるだろう。
 そして、この策は実現することなく、間もなく終戦となったのである。