データベース『えひめの記憶』
双海町誌
第二節 工業
一 晒 蝋
双海地域の工業で忘れてならないのは、藩政時代に大洲藩主の奨励によって特産物となった晒蝋である。藩財政の窮乏を救い、更にこれを豊かにするための方策として、江戸中期ごろから各藩主は競って産業の奨励を図った。そのため、各地に名産・特産品が生まれたが、本町の晒蝋もローソク、ビンツケ等の原料として重要な役割を果たしていた。
本町の晒蝋の起源については判然としないが、一九世紀初頭の文化・文政のころから、灘町・久保・高岸及び豊田方面で従事する者が順次増加していったようである。灘町地区においては、小嶋屋・本田屋・恵比寿屋(宇都宮貞太郎)などが元祖といわれている。本田屋などは、浅吉の曾祖父近右衛門時代の明治中期には既に始めていたようである。小嶋屋・恵比寿屋は、これよりも更に古いとされている。なお、高岸・久保等では早くに廃業したという。
産額(明治末期ごろ)
近年平均総産額約四千丸(一丸は一〇〇斤で六〇キログラム)
生蝋は周桑郡・豊前・豊後より購入した。その額は約三五〇〇丸であった。
また、はぜの実は上灘・下灘はもちろん、中山・内子・砥部等の近隣の村、遠く九州の大分県・福岡県あたりからも購入した(平均貫価額 当時一〇〇斤当たり五円)。
販路は、大阪・神戸の問屋であったが、灘町の品は特に天候と水の調和がよかったために良質で、各地の勧業博覧会や品評会において多数の賞を得た。
なんの因果ではぜとりなろた
綱が切れたら命がけ
哀調を帯びた歌声につれてはぜの実を取り、それを砕いて青蝋にし、釜で溶かして日光に当てる作業を繰り返し、白蝋にして型にはめるのが工程であった。
太平洋戦争中の食料増産の余波を受けてはぜの木が乱伐され、製造も機械化されていくとともに、本町の晒蝋業は衰微していった。近年まで喜多製蝋会社(長浜町)の下請けをしている工場があったが、一九七〇(昭和四十五)年に廃業したため、本町の晒蝋業は完全に消滅した。
二 源 太 石
晒蝋とともに名を馳せていたものに上灘、岡の源太石の採掘がある。源太石の発見については、おもしろい伝説がある。
昔、由並本尊城主が築城に当たって基礎となる良石材を源太という者に探させた。源太は神に加護をお祈りし、そのお告げによって本石材を発見したというのである。いかに良石を求めて各地にわたって苦労したかがうかがえる物語といえよう。源太の努力によって発見された石材で立派に築城することができ、この石材の名は上がった。人々はこれを源太石と呼んで後世に伝えたのである。
一九一五(大正四)年に編纂された『上灘村郷土誌』(第八編参照)には、「源太石山旧蹟」という一項があり、①廃藩以前は大洲藩主から「お山止め」が出て勝手に採掘することが禁じられていたこと、②維新後一時官有となったが、その後岡組の江口角三郎の所有となったこと、③角三郎は官命を受け、一八七七(明治十)年に開催された内国勧業博覧会に本石を出品し、内務卿大久保利通から褒状を授与されたことなどが記載されている。同誌所載の褒賞写しは下記のとおり。
内国博覧会で賞を受けたことから注文が増加し、源太石は各種の記念碑や神社仏閣の石碑、庭の飾り石、土台石、石垣などに幅広く利用されるようになった。
香川県金比羅宮境内に立つ高さ三メートル余の巨碑は源太石製で、碑の裏面には世話人である栄口、江口等の名が刻まれている。このほか、牛ノ峯地蔵尊・天一稲荷神社・中山町秦皇山の標柱にも源太石が使われている。
この石材はかつて、岡の組山、北松、大木、上田所有の山から産出し往時はたいへん珍重された。しかし、その後良材が減少したこと、搬出が不便であること、石屑の処理が難しいことに加え、代替素材であるコンクリートの発達などのため現在は採掘されていない。
本町地域では源太石以外に、本尊山南麓からも石材が盛んに採掘されたが、太平洋戦争後には軟石であることから検査石には不適当とされた。また日喰からは塩害に強い雲母変成岩の石材が採掘され、昭和十年代に敷設された鉄道の基礎工事には、この石材が大量に使用された。下灘駅東のガード付近には、現在でもその石積みを見ることができる。
このほか、一九七五(昭和五十)年ころまで奥大栄でも石材が採掘されていたが、現在では全く途絶えている。
三 陶 土
双海地域の陶器づくりは、一八八七(明治二十)年ごろ、高野川の出口で大汐惣五郎という者が窯を築いて茶わんや皿を焼き、郡中・松前方面に売り出していたのが始まりといわれている。
その当時、高野川では茶わん石の発掘が盛んで、「いろは四十八口」と呼ばれるほどの石の発掘場があった。発掘された石は、日割りで順番に海岸におろし、船で松前に送って陸揚げし、砥部焼の本場に送られていた。
農家は副業としてかなりの収益を得ていたが、大正末期に至って工賃の低下そのほかにより、しだいに衰微していった。最後までただ一人採掘を続けていた山崎静夫も、一九七八(昭和五十三)年に廃業した。
四 醸 造 業
(1) 酒 造
双海地域の酒造業は、明治年間は盛んで、大栄口に一軒・灘町に二軒・高岸に一軒・下灘に二軒あった。灘町の奥嶋醸造店は、二八七一 (寛文十一)年の創業といわれる。ちなみに同店には、一八七一(明治四)年の税務署からの酒税告知書も現存しており、古い歴史が偲ばれる。
愛媛県には、太平洋戦争前に酒の醸造所が一二〇軒もあったといわれているが、戦時中の統制によってその数が極度に減少し、現在では五五軒となっている。
本町の奥嶋酒造株式会社(奥嶋伝三郎)は、「島錦」と「伝三郎」の二銘柄で県内外に広く知られている。
(2) 醤 油
上浜には、一九二四(大正三)年に創業を開始した醤油工場(閏木敏光)がある。以前は地元産の麦や大豆を原料としていたが、現在は輸入原料からつくった半製品を購入して醸造している。
年間約五万リットルを生産し、町内及び長浜・松山方面へ出荷している。
五 窯 業
(1) 製 瓦
本郷には、明治末期に創業を開始した松原製瓦所(松原宏佳)の工場がある。以前は地元の粘土で瓦をつくっていたが、良質の粘土がなくなったため、松山市久米方面の床土を原料として調達していた。しかし、それも宅地化の進行とともに困難になってしまい、現在では菊間町から入手している。
現在の製瓦は、工程を機械化し、ガス窯で焼くなどの合理化によって少人数の経営が可能となっている。一か月に約八〇〇〇枚程度を生産し、週に一~二回「灘瓦」として町内及び松山方面に出荷している。
(2) 製 陶
本郷の三島神社裏に備前焼の利久窯がある。岡山県で修業を積んだ奥田敏久が一九九八(平成十)年に築窯した。年間二回窯入れをしている。作品はシーサイド公園横の工房のほか、各地で展示販売している。
六 製材・造船
日喰には、従業員二一人の製材所、(株)共栄木材(西下健治)がある。以前は上浮穴や喜多郡方面から原木を購入して加工し、製品を県内及び高松・大阪方面にまで出荷していた。現在は、焼杉などの木材加工品を製造するとともに、海外からの輸入木材を住宅建材として加工して、県内及び近畿方面に販売している。
本町には四軒の造船所があり、いずれも主として漁船を建造していた。そのうち、灘町の池田造船所は一九六五(昭和四十)年以前に廃業、下浜の林造船所と灘町の井窪造船所も一九九五(平成七)年までに相次いで廃業し、現在では上浜の若松造船所(若松孝行)が唯一木造船を建造している。
一九八〇年代には年間五~六隻を進水させていたが、プラスチック船が主流となって建造数は減少している。
七 縫製・製傘業
本郷には、一九六八(昭和四十三)年創業の(株)野口隆商店双海工場(野口敏彦)がある。同工場には、家庭の主婦を中心に二五人が従業している。動力ミシンによる流れ作業システムを構築し、子ども・婦人・紳士・スポーツ用などのズボン類を一日に約四〇〇~五〇〇枚生産している。商品は、商社を経由して大手販売店に送られている。
上浜には、一九七三(昭和四十八)年創業の梶野縫製(梶野茂則)がある。町内の主婦を中心とした一〇人の従業者が、紳士物のイージーオーダーのズボンを一か月約七〇〇本製造し、大阪へ出荷している。
唐崎には、一九七四(昭和四十九)年創業の双海縫製(有)(沖野幸宏)がある。地元の主婦を中心とした一〇人の従業員が和式・洋式のガーゼの寝巻きを一か月三〇〇〇枚程度製造し、大阪へ出荷している。
灘町に洋傘製造所(渡辺福計)がある。渡辺は、先代とともに和傘を製造していたが、大阪で修業をして帰郷し一九七二(昭和四十七)年から洋傘の製造を始めた。昭和四、五〇年代は、町内外四〇人の内職従事者に委託し、一か月一万五〇〇〇本を製造していた。現在は中国製品が大量に出回っているため、注文による逸品製造を行っているに過ぎない。なお、渡辺は西日本では数少ない一貫製造技術をもつ傘職人である。
八 食品製造・食品加工
本町は、藩政時代から干しアワビ・炒りナマコなどの生産が盛んであった。また、戦後の食料難の時期には、煮干しや干しエビなどを加工する者もいて、人々に貴重な蛋白源を供給した。本町には、現在もこれら魚介類の伝統的な加工技術を受け継いで水産加工業を営む者がいる。一方、都市化や食習慣の変化がもたらした多様な加工食品へのニーズを充たすため、本町にもいくつかの企業が誕生した。それらのなかには、新製品の開発や販路の拡大に力を注いでいる者もいる。
次に、主な企業(代表者)・起業年・場所・従業員数・事業内容等を示す。
・(株)北風鮮魚 (北風三寿)、昭和五十九年、灘町、約九〇人、水産物製造・鮮魚卸・惣菜・仕出し・大手スーパーの関連企業
・(株)フタミフーズ (亀田浩史)、平成二年、灘町、三〇人、各種食材問屋、広く各地に販売
・(有)丸宮物産 (井上健)、平成二年、奥東、二二人、食品加工全般(野菜・肉・魚類)
・(有)石田鮮魚 (石田博喜)、下浜、八人、地元の鮮魚を加工して松山方面へ出荷
・(有)谷井工芸社 (谷井孝壽)、昭和三十七年、両谷、四八人、カツオパックの包装・ヤマキ(株)関連企業
・上田海産(有) (上田登喜博)、本郷、魚介類の加工食品製造
・(有)濱岡海産 (濱岡繁雄)、灘町、魚介類の加工食品製造
・ホズミ海産(有) (上田穂積)、灘町、魚介類の加工食品製造
・藤岡海産 (藤岡修)、昭和五十八年、小網、魚・野菜の加工食品製造