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久万町誌

二 四国遍路と久万山道

 久万町菅生に菅生山大宝寺があり四国八八か所の第四四番の札所となっており、美川村竹谷には四国八八か所第四五番の札所、海岸山岩屋寺がある。春の彼岸前後には、七か所参りや四国八八か所廻りの遍路が多く、また二一日の御大師さんの縁日には、近郷近在の善男善女の参る姿があとを絶たない。
 特に縁日の岩屋さんは岩屋市とも呼ばれおびただしい参拝者があり、賑わうのである。
 四国雲場八八か所というのは、徳鳥県の霊山寺を一番として二三番薬王寺まで、高知県へ入って、二四番最御崎寺から三九番延光寺まで、愛媛県では四〇番の観自在寺から六五番三角寺に至り、香川県へ入る。六六番霊辺寺から八八番大窪寺で終わるのである。
 この四国霊場はいつごろから始まったものであろうか。その起源については、いろいろの説がある。特に弘法大師にまつわる伝説が多い。
 真言宗の開祖である空海、弘法人師が入定の後、その弟子の真済が大師の四国を廻られた霊地を慕って順礼をしたのに始まるといい、あるいは大師の徳をたたえる信徒たちがどこかの霊場にその尊像が現われるのを信じて、順礼に出るようになったともいうことである。
 いつごろから始まったかははっきりしないが、平安時代の終わりころといわれ、八八か所になったのは、室町時代の中ごろであろうということである。
 またこの霊場の位置が今のようにはっきりときめられたのは、江戸時代に入ってからのことであり、貞享、元禄のころには盛んに巡拝がなされたという。
 巡拝者は山間僻地の霊場を巡錫することによって、自然のうちに宗教的生活を体験し、その信仰をますます固めたという。
 また四国各地を巡拝することによって、交通の発達を促し、遍路道が整えられたのであろう。
 「へんろ道」を通れば、迷わないで霊場へつき、その道筋には遍路宿も次第にできてきたのである。これがまた、船の旅行者にも便利をみることになり、間接には、文化の伝播に役立っただけでなく、封建制度のもとで統制されていた江戸時代の民衆にとって見聞をひろめるための最たるものであり、農村社会においては、大きなレクリエーションにもなったことであろう。
 四国八八か所のうち久万町菅生に大宝寺があり、大宝寺奥の院である岩屋寺が美川にあり、いずれも古くから有名な寺である。
 古い寺なのでいろいろな人が参詣している。中でも、嵯峨大覚寺二品空性法親王の「伊予二名州御巡行略記」に菅生山大宝寺参詣がのっている。
 空性法親王が寛永一五年(一六三八)秋八月に始まり、同一一月に終わる予土阿讃の四国霊場御巡行の途次、その名所旧蹟を、おつきの菅生山大宝寺権少僧正賢明に命じて執筆せしめたものをいう。
  「伊予の国、高峯の雪の流れにて、無明の塵を洗わんと、この山里に来て見れば、菅生の山は影深く、光り輝く御仏は、文武の御宇のその昔、月氏国より渡り来し、吾が朝無比の慈悲不滅、体想現はす一一面、此の霊験を感得しここを初めと思い立ち、二名の州を巡り行く、高祖大師の跡を踏み、名山霊地を礼拝し、電光朝露の身の上に、作りし罪の数々も、慚愧懺悔の一念に、亡びやせむと立出でて、つまぐる珠数の玉鉾の、道の辺りの古岩窟、松吹く風や鐘の音も、余所に勝れて真如の、月冴え渡る七鳥の、岩屋寺こそはわが大師、修練を凝し給う時、山の朝霧海に以て松吹く国と詠じつつ、海岩山と号けたる。岩の姿や石組は、世にも妙なる形勢こそ、人間界とも思ほへず、
   敵襲除の城の趾、おちこち見坂にいこひして、左に高き昧の峯、右に見降す二栗山、翠したたる日の光、城の辺りや海原を、遥に見れば瑠璃の玉、並べ重なる浪の上に、沖津島山泊り浦、門島神に曳く注連の、由良れて清し渚漕く、海士の小舟もいにしへは、平致の命の母君を、乗せ送ります所とて、母居島と呼ぶ人々の、声は駿河にあらねども、伊予いまここに小富士山、出舟入舟数々の、釣舟などを眺めしが、蘆山は烟雨浙江は、潮とのみぞ聞きぬれど、瀟々西湖の景とても、是には如何で勝るべき。」
 空性法親王というのは、誠仁親王の第二の御子で、後陽成天皇の御弟にあたられる。
 御母は内大臣勧修寺晴秀の女、天正元年御誕生、早年にして大覚寺門跡准后尊信の室に入って密教を学ばれ、後大覚寺門跡となられ尊信の後を継がれた。
 慶長三年(一五九八)天王寺別当に補せられ、晩年に至り退居して俗となり随菴と号せられた。
 慶安三年(一六五○)八月二五日薨去、御年七八。
  ア 近松の「嵯峨天皇甘露雨」の四国遍路
 近松が正徳四年(一七一四)に出した「嵯峨天皇甘露雨」という浄瑠璃に出ている「道行」で「大炊が妻は我子の菩提、勝藤が妻は父のため、それよりも猶一筋に、夫々の此の世の願ひ」のために阿波から土佐・伊予・讃岐と順路をとって、四国遍路をした道行なのである。
  「是から先は伊予簾、かかる不思議や一とせに、例譬七たびなる栗の、仏の木寺も高く、音に聞えし菅生山、伊予の小富士や松山の、松の調か三味線か、乗せて一ふし浄瑠璃寺、道後の湯いり伊達染浴衣、裾に名所の正月桜、しやならしやならしやならしやなら、軟らかな手でちょいと招く、誰が石手寺と名付けん、三島佐礼山国分寺、六五番は三角寺」
  イ 大淀の三千風の「日本行脚文集巻五」中の四国遍路
 「日本行脚文集」は元禄三年(一六九〇)刊七冊本。彼の旅行記である。
 三千風の足迹の及ぶところ、全国六六州中五四国、首尾七年、行程実に三八〇〇余里という。彼はこの本の序文に、
  「一足も栄耀の馬、籠にのらず、一宿かりかねし事なく、一飯にも飢えたる事なく、一病の障りなく、一言の争ひなく、万、満足の功をとり、一生の大願望の本意を遂げたり」
と記している。
 三千風・三坂から浄瑠璃寺・葉坂寺・西蓮寺・浄土寺・石手寺と巡拝し、道後の温泉でつかれをはらし、附近の名所を尋ねたり、長編の「湯の記」をつくったりしたが、今は伝わっていないと思われる。
  ウ 菅生山奥院
  「菅生山の前寺を拱ぎ、是より奥院三里の嶮難、中々筆もおよびがたし。霧は咽をしめ、風は笠をしがらむ、枯木に袖をすれば、むささびに肝を消し、たをれ木にしたをひをかくれば、狢に胸をひやす。
   行くさき鹿猪をふみおこし、闇洞をさぐり、なかくぼの丘にゆく。まこときこふる幽谷、是ぞ八八ヵ第一の奇怪、大師神変をふるひ給ふ地なれば、大かたにやはあるべき。
   胎内くぐりは、五十丈ばかりの岩山ほうとわれて、中のその峡一尺四五寸の細峡、ひかりもなきに身をそはだて、苔髭にとりつき、五〇間ほど這出ぬれば、さらに別世界あり、又此上に白山の銅社、二二の階をのぼりしが、頂上は丈ばかりにして、下は数千丈の玉はしる底ふかし、目くるめき、我れ彼のけしきもなく、せくぐまりぬきあしに、石根ゆぶるが如くわななきくだりぬ。
   本院の窟のうちには、瀬登不動として秘仏まします。又一二の階をあがり、役行者の岩屋、それよりこなたの峙路より見上ぐれば、万丈の岩屏、中壇に七尺余の卒都婆堂々と立り、これ第一の奇妙、黄金色の中に梵分鮮に見へたり。
   緑の縄もとどきかたく松のたる木もくみあげがたし。烏の翅雲の脚ならでは。行くべき道さらになし。
   老眼水気におぼつかなく、今少しちかづかまほしくたちよれば、からくさ蜂の通ひ路、あをむしをおふすがりのちまたなれば、むなしく雲をのみ見あげたり、しばらく感眺せしに、さながら此の世のさまにもあらず。
   此菅生の峡、外には五岳の相を見せ、うちには、兜率の内院を秘し、中央阿宇宮の法帝、手索明王化縁の霊地、いづこを見ても歓喜涙恨の種ならずということなし。
   またこらえかねて例の仏くさき贋を一巻書き、臥雲の龍侶、俊学法師に渡す。」(記略)
    笠による菅のお山をきてみれば
     ぬれぬ雨きく 法の水音
     かつちるや瀬登り御衣木濃悒
     巌悒俗の得よまぬ地水火風空
  エ 十返舎一九の「鐘の草鮭」中の四国遍路
 一九(本名重田貞一、天保二年歿、年六七)は「膝栗毛」以後も、膝栗毛まがいのものをたくさん書いた。その一つが「金の草鞋」である。
 二四編の中の第一四編が「四国遍路記」になっている。
 一九はこの四国遍路の緒詞に、
  「予先生予州道後の湯に赴きし時、幸に所用ありて、土佐の高知に至り、それより阿波の徳島に出で、紀州に渡りしことありしに、其時大師の霊場道路の最寄よき処は参詣して今にこれを想像せり」
 と書いているから、八八か所の全部を廻ったのではなかった。だからもう一九のころにはたくさん出ていた「遍路案内記」によって、この道中記をつくったものと思う。
  「夫より大洲の御城下、しも村、若宮、とやが橋、にいやの町、いを木村、川のぼり村、三島明神、此先にひわた坂、大洲と松山御領分の境、夫より熊野町を過ぎて、すがう村なり。
  四四番すがう山大ほう寺大かく院文武天皇の大宝二年建立、本尊一一面観音、御詠歌
    今の世は大悲の恵みすがう山
     道には弥陀の誓いをぞ待つ
  此の間凡て接待多し
  是よりはたの川、此の処に荷物を預けて、いわやへ行くべし、此所へ戻るなり。
  すがうにて梅干の施行ありければ
   (狂)施行とて菩提の種を蒔つるは
      これ梅干のすがう山なれ
  夫より住吉・薬師堂・焔魔堂を過ぎて右の方の道を行く。此所より岩屋ヘ一里山坂道なり。
   四五番 窟寺かいがん山
  此の寺巌山の姿面白く、本尊石の不動なり。
    御 詠 歌
   大衆の祈る力の実に窟
     石の中にも極楽ぞある。
  是より畑野川へ戻り、住吉の宮より右へ往く、菅生村・西明神・東明神・峠より松山の御城、三つの浜、伊予の小富士見えて絶景なり」
 久万町の交通はこの遍路道も大きい役割をしたものと思われる。所々に「へんろ道」の石が建っている。
 大洲を経て、十夜が橋・新谷町・内子町・大瀬を経て、小田町の突合・中田渡・上田渡・総津落合・臼杵・下坂場峠を越えて、二名・桧皮峠・久万町・菅生山・峠御堂を越えて畑野川・岩屋寺・畑野川・久万町・三坂を越えて久谷村浄瑠璃寺へ出るコース。
 久万町から野尻を通り、中之村・槙谷を経て岩屋山へ行く道もある。
 こうした遍路道がうねうねとつづいていたのであるが、明治二五年国道開通によって、上浮穴の動脈は太くなり開発も進み、急速な進歩をしたものであろう。
  オ 一里塚
 旧久万街道に里塚立岩が立っている。明神に一基、藤の棚に一基、菅生三嶋神社の裏山の中腹に一基という風に五里・六里・七里と一里ごとに立てられたものである。松山札之辻から三坂を越えて、中の村・有枝・程野を経て美川村東川で終わっている。
 寛保元年三月御領界、郡界並びに里塚立木であったが、何か所にもあるので年々修復の必要があるため、立石を立てた。御領界立石は伊藤浅右衛門雪旦、里塚立石は祐筆水谷半蔵、郡界立石は書簡荒井又五郎が書いた。又五郎が老いて後、郡という字のたて棒が二寸長過ぎたと後悔をしたという。
  土佐境は七鳥村 ○松山札の辻より十里余
  大洲境黒田村  ○松山札の辻より三里
  小松境は赤尾  ○松山札の辻より十一里
  今治境は野間  ○松山札の辻より十一里
  西条境は桑村  ○松山札の辻より十五里