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久万町誌

五 久万山騒動(寛保元年)

 久万山は、隔絶された交通不便な土地柄だけに、これを利用した役人によって、特に苛酷な扱いを受けたり、また善政の時もあったり色々なことが起こって農民生活に明暗の姿が繰り返されたことであろう。
 心酷な悪政の時にもひたすら忍従を余儀なくされたであろうが、限界を越えると、消極的ではあるが反抗を試みたようである。
 この頂点になるものが寛保元年(一七四一)の久万山騒動である。
 これ以前にも耐え難い支配者の非をなくしようと進んで領主に訴え出ている記録もある。
 ア 佃十成の排斥運動
 加藤嘉明治下の久万山は、佃十成の知行所であったが、治郎兵衛十戒の圧政はきびしいものであったらしく、寛永三年(一六二六)二月に久万山庄屋どもは、大川村の土居三郎右衛門、日野浦村船草次郎右衛門を代表として加藤嘉明に対し、じきじきに難渋の模様を訴え支配者の更迭を願い出ている。その理由は、佃十成が西明神・菅生・畑野川・大川の各村で特に農家を責めて財をなし、松山の屋敷には、毎日人夫を引き寄せ、年貢が特に重いことをあげている。
 この代表二名の庄屋には佃十成に対して特に含むところがあったらしい。それは次のようなことである。
 元和元年(一六一五)大坂夏の陣には、加藤嘉明は、豊臣家をはばかり中立の立場をとったが、徳川氏に対する言いわけに、名代として佃十成を出陣させている。この時、久万山分からは、土居、船草両人がこの軍に従った。
 十成は長柄川から退く時、大坂勢に迫撃されて川に落ち、生命危急となった。その時土居、船草の両人は決死の覚悟で追手を鉄砲でうちまくり、又槍を合わせて数名を打ち取り、舟をまわして沈んだ十成を救い、しんがりをつとめて事なきを得たのである。この他にも勲功が多く、十成も感激して、「帰国の上は必ずこれに報いるであろう」と約束した。ところが戦いも終わり帰陣してからは一向に何の沙汰もない。この違約に対する不満もあって、この挙に出たものと思われる。
 この結果、十成の所領は取上げられたが引きつづき、その子三郎兵衛が知行を相続することになった。そこで土居、船草は、是非他の人をと押し返し嘆願したが家老堀主水・足立新助の両名から、このことを含んでひどい政治を行なうようなことは一切させないという証文をもらって、ようやく引き下ったのであった。この事があって一年の後、加藤嘉明は合津四〇万石に国替えとなり、佃家もともに立退いたので、佃氏の久万山支配は、寛永四年(一六二七)をもって終わったのである。
 佃十成は加藤嘉明の老臣で「予陽郡郷俚諺集」によれば、関ヶ原の戦いで嘉明出陣の留守に中国毛利の大軍に急襲され、松前城を守って勇戦力闘して、これを風車の海に追い、更に毛利軍を援助した和気郡の一揆を鎮定するなど大功を立てている。また松山城から城下の町割りまで主君を助けて大いに働いた人物であり、慶長五年(一六〇〇)加藤嘉明は久万山六〇〇〇石を与え、寛永四年まで久万山を支配させた。十成は産業を起こし、善政を施し、各神社、寺院へ寄進あるいは造営をした。
 寛永二年(一六二五)には久万に万徳山法然寺を建立(久万町本町)おそらく規模を大にして再建したものと思われる。
 松山市長建寺の万誉上人の法弟善貞を迎えて住職としたという。
 イ 久万山騒動
 寛保元年の久万山騒動は享保一七年の大飢饉後、わずかに九年のことである。久万山が飢饉のために受けた痛手が十分に回復していない時であっただけに、一そう反抗心を強めたことであろうと考えられる。
 騒動の原因としては、久万山には困窮している村々が多い上に、近来米の値段が高くなり、逆に特産の茶の値段が下がって、銀で納める年貢に非常な困難を生じたことが表面に出ている。
 そこで寛保元年三月八日に、下坂すじの八ヵ村の農民が、あれこれ歎願のため人数をそろえて松山城下に向かったが、途中久米町で代官関助太夫の説諭にあい、要領を得ないまま引き返さざるを得なかった。
 このことについて、奉行穂坂太郎右衛門はじめ郡奉行諸役人が久万に出張して、いろいろ申し渡すことがあったが、彼らの念願するような結論も出ず、失望は大きかった。
 こうして七月五日を迎え、まず土佐境の久主村の農民がそろって蜂起し、日野浦村まで押しよせた。下坂の村々は次々とこれに合流し、次第に大洲領内へ逃散の形をとって来た。藩に訴え出ても、事態は有利に展開するとは思われない。無益の抗争をするよりは、土地を捨てて大洲領へ逃げ込もうという消極的な一揆である。しかし藩としては一つは面目上、二つには貢租は空しくなり、土地は荒廃し、経済的に耐えられぬこととなる。
 八日、露峯村に進んだときは下坂の外、北坂、口坂と久万山三坂のことごとくが立ち上がった。
 一一日には薄木村(臼杵)に達し、大洲領代官が意見を加えたが聞かず、一三日には内子村に進んだ。
 松山藩としては、はじめての経験であり、折柄二六歳の藩侯定喬は江戸よりの帰国の途上にあり、留守を預かる要路役人としては何とか穏やかにすませたいと思うにつけ、気が気ではない。郡奉行吉岡平右衛門はじめ諸役人は急ぎ後を追い、願いの筋は十分聞き届けるから早々に立ちもどるように訓すが応じない。奉行久松庄右衛門も証札を示して、どのような願いであろうとも聞き届けて、約束を果たそうと懇にさとすが農民は聞き入れなかった。
 一五日には中村谷宮まで進んだ。この時の人数、二八四三人であったという。
 役人もつぎつぎと入りこみ、種々説諭につとめたが、一向に耳をかさず、ただ「私どもは大洲の加藤遠江守様にお願いして、一切をおまかせする考えである。もし加藤様がお引受け下さらねば、何国までも立越してお願いする覚悟である」との一点張り、ついに大目付片岡七郎左衛門が使者として、家老連判の証札を示し前のように諭したが、これにも応じなかった。
 七月一八日に、代官関助太夫は菅生山大宝寺の方丈、斉秀和尚を尋ね、何とぞこの鋏撫をお願いしたいと申し出た。方丈は、このたびの大事は到底私共の扱いでは納まらぬと考える旨を述べて固く辞退したが、代官のたっての願いに、「ともかく理覚坊を遣わして様子を見て去就をきめましょう」と答えた。
 理覚坊は急いで逃散のあとを追い、当たってみたが全然うけつけられなかった。
 本行久松庄右衛門、代官関助太夫は、重ねて大宝寺を訪れ「この上は方丈じきじきに、是非とも御越駕を」と懇願した。
 斉秀和尚も再三の依頼に決死の覚悟で調停に乗り出したのである。
  一、すべて御領分お仕置方にかかる重い願いのある場合は、三つのうち二つ、
  一、郡市にかかわる願い筋ある場合も右と同様
  一、村々だけにかかわる願い筋は十ヵ条のうち五つ
  一、出訴の罪は問われることなく、万事拙僧にめんじ許されること右の通り御決定を願い候、されば早々発足し拙僧一命にかけ、国家忠義のため随分働き、召連れ帰山申すべく候、右の通り御免にても一同納得中申ず候わば、拙僧も直に出国と心底決定いたし候、各々様にも大守公へ忠功と思し召し、思い発して唯今決定なさるべく候。
                       早々 以 上
と両人あてに書き送った。
 これに答えて両人から、右四件についてはいささかの相違もない旨の書面が届いたので、斉秀和尚は、七月二四日大洲領へ向かった。そして中村町において百姓どもに百方説諭の末、八月一二日に一同ついに納得、万事和尚に委すこととし二名村を経て久万町に戻り一泊、翌一三日にそれぞれ自村に立ちもどった。
 斉秀和尚は直ちに書面をもって松山に事の次第を報じ、百姓ども歎願の筋につき聞き届け申し渡しは、家老水野佶左衛門様みずから御登山なくては一同安堵しないであろうと申し送ったため、上席家老水野佶左衛門を始め奉行久松庄右衛門、目付片岡七郎左衛門、同遠山要、郡奉行吉岡平右衛門、代官関助太夫、元締高橋太二右衛門、手代林嘉平太、同山本勘右衛門の一行が久万町法然寺に出張し、各村代表者に対して申し渡しがあり、三三日に及んだ久万山騒動も鎮まった。
 この申し渡しの内容が、どのようなものであったか、それによって斉秀和尚の四件の構想がどのように生かされていて百姓逃散の意図がどこにあったかも判明するはずであるが、こまかな記録が見えないのが残念である。
 ただ本郡に残っている始末書の断簡によって次のようなことが知られる。
  一、御上より百姓願いの筋、もっともに仰せ出され、あらましお叶え下され候に付き、水野佶左衛門様より、御免書村々受取り申し候。
  一、救米三、〇〇〇俵を久万山中へ下し置かれ、百姓ども有難く頂戴したこと。その配分については御高割(半分宗門人高へ半分)とすること。
  一、菅生山大宝寺に御褒美として、一五○石下されたこと。
  一、当殿様、江戸より御帰国になり騒動を御聞き遊ばされ、国の仕置きよろしからずとして、家老奥平久兵衛を生名島へ、紙方改奉行穂坂太郎左衛門を二神島へ、物頭脇坂五郎右衛門を大下島へ流罪としたこと。
  一、大洲殿様江戸より御帰国、種々お聞き及びの上、久万百姓に対し飯米を渡さざりしことを御立腹になり、家老加藤玄蕃遠島となりたること。
 この寛保元年の久万山百姓逃散は、有名な松山騒動の中心人物たる奥平久兵衛の失脚の直接原因となっている。
 奥平久兵衛の八月一五日、生名島流罪の申し渡し書は、
   時節柄不相応の饗応をうけ酒宴興に長じ、その上常に賄賂をとり、ひいきを以て邪知の者の申し分を信じ裁許正道これなく、権威を以て下の痛みをも顧みず候故、下賤の者恨みを生じ、この度久万山騒動の儀も出来し、既に家の大事にも及ぶべき程の儀に相成候段、甚だ以て不忠の至りに候、之によって扶持方とり放ち、遠島申付け候、
となっている。