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久万町誌

1 以前の土佐街道

  えらいものぞな 明神馬子は
  三坂夜でて 夜もどるョ
  三坂通いすりゃヨ 雪降りかかるョ
  戻りゃ妻子が 泣きかかるョー
 九九道は谷間を縫って駄鈴のすみきった音に和し馬子歌はしじまの谷合いに静かに消えて行く。これは古くからの久万山道の情景であり、四国新道が出来るまで、松山・高知間の要路の姿であった。現在国道三三号線は、昭和二七年一二月四日、徳島・高松・松山を結ぶ国道一一号線とともに一級国道に認定された。しかし一一号線が明治九年から国道であったのに対し、それまで三三号線は県道の地位しかあたえられていなかった。それは、古くは土佐街道(久万山道)とよばれていたが、なにしろ四国山地を横切らなければならないので、三坂峠などの難所も多く、「険阻ニシテ物品ノ運輸ハ勿論衆人ノ往来不便ヲ極ム」るので「交通開
ケズ駄馬ノ一部通ズルノミ」の悪路であったからである。
 幕藩体制が崩壌して強力な中央集権国家の建設を急ぐ明治政府が成立すると政治・経済・文化・軍事等あらゆる面から、中央と地方、県と県を結ぶ道路の整備改良が早急の事業となり、土佐街道を始め四国各地の道路も未開発のままではすまされなくなった。そこで愛媛・高知・徳島の四国三県の県令は、協力して主幹道路の開さくにあたることになったのである。