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久万町誌

2 四国新道建設の機来る

  「讃岐国那珂郡丸亀港ト同国多度郡多度津港ヨリ起リ、那珂郡ヨリ起リ、那珂郡金才寺ニ於テ両源線ヲ連絡シ、夫ヨリ同郡琴平ヲ経三野郡財田上ノ村ヨリ徳鳥県ヲ経高知ニ進スルモノト、高知ヨリ起リ、伊予国上浮穴郡久万町駅ヲ経テ県令国松山ニ達スル……」
 道程
 これを四国新道と呼んだのである。この新道の中で土佐街逆開さくの構想がいつごろから話題にのぼり始めたか、史料的に明らかになし得ないが、明治維新以来産業の発達や文明の開化のためには、まず主幹道路を整備改良しなければならないとする意見は多くの人々の口に上ったであろう。
 すなわち久万林業王井部栄範等の先覚者は早くから着眼していた。
 明治一四年東京山林共進会に報告した植林の概況の中に……。
   久万郷は山岳起伏高嶺四周に聳え松山城市の要路には三坂の嶮岨あり。
   本郡小田郷臼杵村に到れば水源流材の便ありと雖も道路狭く、殊に霖雨将に到らざれば材を流輸すること能わざるを以て寧ろ松山に輸出するに如かず。茲に於てさきに有志者は三坂の嶮路開鑿の事を喋々せしも終に行われざりし、廃藩置県以来我が郷人民は一時の浮利に迷いて天然の森林を濫伐し禿山となるも顧みず、漸く深山に斧鉞を入るに至れば其産額の減じたる推して知るべきなり。栄範深く之を憂い、退て熟考するに山林繁植するは目下の急務にして、木材の運輸隆盛に趣くときは嶮岨の開鑿も言わずして自ら行わるべし、然り而して、栽樹の当地に適し、且需要の厚きものは杉樹に如くはなしと、奮然志を立て大宝寺住職木島堅州に謀るに同氏も大に賛成せり。然れ共素より法務の多忙なるが故に栄範に委托するに其所有地に杉倒を栽培せん事を以てす。
   于時明治六年三月より……。
と記している。
 維新政治の軌道に乗るにつれ、新経済の樹立に奔走の人々の目は早くも道路開発に注がれていた。明治一七年、愛媛県三野豊田郡役所勧業係大久保諶之亟が、県政革新の基盤として、四国新道を建設することを提唱した。そのころ高知県側でも県政の主要問題とし、阪神に通ずる海路があるのみで瀬戸内との連絡のため愛媛に通ずる一大道路の開鑿の議がねられた。又上浮穴郡では、各郡長桧垣伸がいて、明治一四年着任以来鋭意地域開発に腐心し、井部栄範・梅木源平・山内賤雄・佐伯義一郎等と郡政についての話し合いがしばしば行われた。当然土佐街道は話題にのぼった。郡長は意を決し自ら足を運び、部下を督励して愛媛県に新道開鑿を沿道筋戸長に働きかけ、測量その他の書類を整え、陳情書を提出したところ、高知県高岡郡々長大西正義が上浮穴郡役所に来て、当新道の必要性を説き実地調査をして、高知県に内申した。ここに両者意見の一致をみ、新道開鑿の進度もほぼ一致し、将来協力することを約束した。六月になって愛媛県令関新平は高知県令田辺良顕と会見し、久万山経由の予土横断道路開鑿とその事業の着工等を約した。六月二八日両県令連書をもって工事予定額五四万の半額ニ七万円の国庫補助を当時内務卿山県有朋に申請した。ところが七月一二日付の内務卿の回答書が届いたのをみれば、「新道開さくは時期を得た起工と認められるが、工事目論見書を整備して費用の支出方法及び工事期間などの具体案を作製提出した上でなければ、起工認可や、国庫補助の支給については論議しがたい」としてあった。