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久万町誌

2 歌舞伎

 歌舞伎は衣装やその道具だて、舞台装置などから、どこでもやれるものではなかった。そこで浄瑠璃が特に盛んであった下直瀬に芽ばえたようだ。山村の娯楽として明治になって盛んになってきたが、それがいつごろから始まったかははっきりしない。言い伝えや旧家に残されている浄瑠璃の古写本・神社の絵馬などから、この地域には、古くからこのような芸能があったことがうかがえる。
 文化一二年(一八一五)には、自楽という芸名をもつ熊次という人が浄瑠璃を語っていたといわれ、安政年間(一八五四~一八六○)には、この地方独特の催しである家内安全と豊年を祈る春の地鎮祭に上演されていたようである。
 大正八年(一九一九)、地域の若者や芝居好きの人たちが集まって敷島会が結成された。そのリーダー格であった山内恒太郎らが下直瀬出身歌舞伎俳優豊島豊次郎らの手ほどきを受けたのがきっかけで、敷島会で歌舞伎を始めた。これが現在の川瀬歌舞伎の始まりとされている。その後、若者らによって受け継がれ、発展してきた。太平洋戦争の初期には軍の慰問のために出演するなどしたが、戦争が激しくなり中断された。
 昭和二〇年(一九四五)終戦と同時に山内恒太郎の世話で新しく更生座を結成して再発足した。
 昭和二一年、進駐軍の公認劇団となり、同二二年には、日本演劇協会に登録した。
 昭和二三年、公民館開設と同時に更生座をそのまま公民館娯楽部に切り替えて、いよいよ第二の隆盛期を迎えることになり、部員も二〇名をこえるという充実したメンバーがそろった。
 昭和二七年には、松山市庁ホールで、二九年には、道後公会堂で、さらに三三年には農研グループの県代表として県医師会館で公演し、川瀬歌舞伎の真価を発揮し、県下の郷土芸能として高く評価された。当時、中堅として活躍していた松本鶴三や女形を演じる岡作太郎らは、水谷志津夫師匠の厳しい指導を受け、一日の仕事を終えた後、五時間にものぼる練習によく耐えて地道な努力を続けた。その厳しい修業により、郷土芸能として生き続けてきた。
 水谷師匠は、昭和二九年になくなり、その追善興行が三二年に行われた。この川瀬歌舞伎も、若い人たちが都会に出ていくことで欠員ができ昭和三四年二月、面河村杣野の祭礼での上演を最後に中断され、再開されるめどもたたず、その伝承さえあやぶまれた。しかし、伝統がすたれていくことを心配した人たちによって、昭和三六年末、公民館を中心に川瀬歌舞伎保存会を結成し、三たび伝統の灯がともされた。
 昭和三七年一月、保存会結成を記念して、第一回発表会が下直瀬公民館ではなやかに開かれた。出し物は、「絵本太功記十段目尼崎の段」、「義経千本桜三段目寿志屋の段」、「式三番叟」などであり、衣装や小道具なども昔ながらの本格的なものであった。これらは、四〇年前の敷島会時代のものが受けつがれ、公民館に保管されている。
 このすばらしい古典芸能を伝承するため、今もたゆまぬ努力が公民館を中心として続けられ、地元の小中学生で今までに小役が多数生まれている。
 久万町の貴重な郷土芸能として、川瀬歌舞伎を永遠に伝えていきたいものである。