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久万町誌

6 高原野菜

 久万町は、四国山地の西部に位置し、標高四〇〇から八〇〇㍍の高原にあり、年間平均気温は、一二・四度と夏は冷涼な気象条件である。
 昭和三二年に販売を目的とした夏秋トマト(品種は古谷早生)を導入した。昭和三六年の栽培面積は六㌶であったが、畑地、しかも露地栽培ということもあって、疫病や夜蛾の多発や台風の影響によって収量が伸びず、昭和三九年には一㌶に激減し特産作目としての定着は望めなかった。
 昭和四二年には愛媛県農試久万試験地に営農実証圃を設置して、四二年から四六年の期間に、トマト、ほうれん草、人参等の栽培検討を行った結果適地性、収益性、市場性等からトマトは有望品目であることが実証された。そのほかの野菜についても夏秋ものが増反傾向にある。
 ア トマト
 昭和四五年に米の生産調整による転作推進作目としてトマト栽培に着手し、農業改良普及所と久万農協、行政が一休となって生産技術、流通の指導体制を整えるために技術軒会議を設けるとともに、産地育成の規模や技術、市場対策について検討を繰返し、昭和四六年一月に五地区で栽培農家一九八戸、栽培面積一〇㌶のトマト産地がうぶ声をあげた。同時に久万農協にトマト生産者部会(部長稲田實)が発足した。
 水川の圃場整備に取りかかって四、五年を経過した時期でもあり、また、米の過剰傾向による生産調整という、かつて経験したことのない試練に直面したわけであるが、トマトの生産については、農協が中心となって、水田利用を推奨し、計画的生産と流通対策を講じてきた。昭和四六年三月には、下畑野川に共同育苗ハウスニ棟を建て、四月から共同育苗を開始した。
 昭和四七年からの品種を「強力東光」とした。昭和四八年八月には「久万高原トマト」京阪神市場で一位となり、販売高も順調に伸ばすことができ、四九年一一月には二億円を突破し、生産者にはずみがついて、高原特産物としての銘柄を築いてきた。しかし、トマトなど野菜は、価格変動が激しく不安定要素が多い。従って四七年には集団産地としての県の産地指定を受け、更に五三年六月には国の指定を受け、価格の最低補償を確保するとともに、価格安定制度の適用を受けることになった。 昭和五四年六、七月の集中豪雨(四日間に約四〇〇㍉)によって出荷減少、軟果が問題となった。一一月には品種をサターンに決定し、台木をPFNに更新した。
 五四年から一~三月の農閑期を利用して高原野菜婦人大学を開き、栽培技術や流通等について研修を深めてきた。
 すでに五二年頃から雨除ハウスによる試験栽培を行っていたが、五五年頃から雨除パイプハウスに切替えて水田にトマト栽培を行うようになり、五六年からは雨除栽培が主体となった。
 五六年には、菅生に転作促進対策事業で、鉄筋スレート葺き平屋建て八七七平方㍍、処理能力一日八〇〇〇ケースのトマト選果場が、建物・選果機を含めて総事業費八四五O万円で、一二月一四日に竣工した。
 トマト生産者や指導技術者は盛んに先進生産地調査や市場調査を行い品質の向上と市場ニーズの把握に努めてきた。町行政からも職員を農協に派遣して、農協職員とのチームによる市場調査、流通対策に力を入れてきた。
 五七年には完熟トマトの試験出荷に取り組み、五八年三月共同育苗施設を直瀬に移転した。県補助等を受け、全面積が雨除ハウス栽培となり、秀品率も上り、京阪神市場で品質が評価され、五八年一二月三日には販売額四億円突破記念大会を開催し、生産者、市場、農協、県、町村関係者が新たな目標を誓い合った。
 完熟トマトに本格的に取り組むこととなり、畑野川地区などを完熟圈に定めて、桃太郎、瑞栄などの品種試験も行い、六〇年度から全面積「桃太郎」に品種更新することになった。
 六〇年一月には販売額六億円を突破したが、生産量の伸びによって、現在の選果場では最大出荷時の処理が困難となったため、予冷庫を一棟新設し、更に、六二年度には、一日の選果処理能力を四〇〇〇ケースアップし、一日一万二〇〇〇ケース処理の出来る施設二五五平方㍍に選果レーンを四列から六列に増設し総事業費五○○○万円となった。
 昭和六一年一月には、トマト生産開始一五周年となり、記念大会が開催された。
 葉たばこ耕作者がトマト栽培に転換するケースもあり、トマト農家は若干増加の傾向にある。
 手軽さもあり、消費者ニーズに合った「ミニトマト」も栽培が続けられている。
 ここまで育ってきた。伝統銘柄産地の久万高原トマトを桃太郎戦争、品質戦争といわれる産地競争から守るために産地の防衛策から積極的な挑戦策を構築する必要があり、天候に左右されない、消費者ニーズにマッチしたトマトづくりとトマト生産者組織の拡充とチームワークを強化し高品質、高い鮮度のトマト生産への努力が一層求められることになるだろう。
 イ ピーマン
 久万高原の夏秋野菜としてピーマンを重点振興野菜に指定し、推奨して生産拡大をはかってきたのは昭和六〇年からである。それまでも生産、販売されていたが量はあまり多くはなかった。
 夏秋ピーマンは、軽量であるため、農業従事者が高齢化、婦人化するなかで順調に栽培面積を増しており、冷涼な気象を活かして高品質が評価され、農家所得の柱として大きなウエイトを占めるようになった。しかし手詰によるところの選果に手を取られ、栽培面積にも限度があるところからピーマン選果機を導入することになった。
 第三期山村振興対策事業で、ピーマン選別機及び包装機を総事業費三五○○万円で設置した。
 久万高原のピーマンは、久万高原「緑ピーマン」として四国内市場、阪神市場へ本格的に出荷を開始し、夏秋ピーマン産地として定着したのは昭和最後の年である。なお、平成には久万農協全支所での栽培が開始される見通しであり、国の野菜産地指定が受けられる面積拡大も明るい展望が開けるものとなろう。
 昭和五九年からの品種は「京みどり」、六一年からは「京波」を選定しているが果形、果色、色つやともに市場人気が高い。
 販売高では、昭和六三年度実績八七六五万円に伸びた。
 選果機のフル活用によって今後生産量も増えてくる見込みである。
 ウ 大 根
 昭和二五年頃から畑野川地区では「みのわせ大根」を、農協が漬物用として栽培を始めたのが最初である。その後、漬物用としてより生大根としての生産が盛んとなり、高知市場や松山市場へ出荷しているが、生産が個々のものであるため、個々に選果し包装したものを農協の系統と個人の二通りの出荷が行われている。
 生大根は、新鮮さ、肉質の軟かさ、甘さなどが品質の良し悪しを決めることになるが、天候が出荷量に影響し、価格変動かきわめて激しいため、その対策としての価格安定をはかるために昭和六一年二月国の産地指定を受けることになった。
 大根は、特に産地間競争が激しくて、銘柄産地及び振興産地を含めて日進月歩の動きがある。
 久万町では畑野川、直瀬は団地を中心として生産拡大がはかられている。その他明神、父二峰地区においても生産、販売が行われている。
 大根は、連作障害が問題であるといわれ、土づくりやローテーションによる輪作体系を確立し、土地の老化現象を回避しなければならない技術研究が必要となってくる。
 今後、久万高原の夏秋大根の生産、出荷を安定的にするには、個選共販体制の充実と栽培流通面の研究を重ね、販売エリアにおける市場、消費者ニーズに対応できる、安全で高品質の品物を安定的に供給できる産地形成に努めることが課題となろう。
 エ キャベツ
 キャベツの栽培は、昭和三〇年ごろから始まり、久万地方の農家が取り組みやすい品目であったため代表的な野菜として定着し、県内市場、高知市場を中心に出荷されてきた。
 一時栽培面積が減少した時期もあったが、地域の特産野菜づくりに農協が積極的に推進をはかったことと、水田の高度利用の面から面積も拡大して、七月から一〇月出荷の夏秋キャベツ産地となった。
 昭和五七年二月には、国の指定産地となり、価格補償が受けられることになり、栽培面積は徐々に増える見込みがもたれている。
 オ その他の野菜
 ほうれん草は、昭和五三年度より、県の産地指定を受け、集団化と計画栽培への技術指導を行ってきたが五五年をピークにして減少している。
 トウモロコシは、戦前、戦後の畑作目の主要作物として栽培されていたが、牛馬の飼育の減少で一時減反となった。最近では、青トウモロコシを焼いたり蒸したりして食べる人が増え、もぎとり用として栽培面積がふえてきた。
 白菜の栽培面積、生産量は、昭和五四年をピークに減少傾向にある。
 馬鈴薯は、昭和四〇年を峠に減少し続けている。久万町の野菜生産の今後の方向として、みつば、ブロッコリー、サラダナ、セリ、いんげんなどの軽量野菜への分担した取り組みも視野に入れる必要があろう。

ピーマン作付、生産状況

ピーマン作付、生産状況


大根の生産状況

大根の生産状況


大根の年次別販売推移(単位千円)

大根の年次別販売推移(単位千円)


キャベツの作付、生産量

キャベツの作付、生産量


その他の野菜の推移

その他の野菜の推移


馬鈴薯の作付、生産量

馬鈴薯の作付、生産量