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久万町誌

1 新農山漁村総合対策事業

 この事業は、いわゆる「新しい村づくり」の別名で一般に知られており、また適地、適産農政ともいって、時の農林大臣が、その企画者となり、推進者となって、戦後の農政に一つの転期をもたらした。
 昭和三一年四月、閣議決定により全国五〇〇〇の町村に平均一〇〇〇万円の特別助成事業を行うことになった。そうして、年次ごとに実施町村を定めて、二年間の継続で、特別助成事業を実施した。
 前記の閣議決定による大臣通達及び対策要綱を要約し、この事業実施の背景を探ると次の三点になる。
  1、昭和二六、七年ごろを境として、世界的に農産物の生産過剰傾向が現れ価格低下が顕著となった。
  2、農地改革によって小規模零細農家が出現し、資本装備、経営基盤が不安定である。
  3、工鉱業の伸長発展にともない農林業との所得格差が増大し、農林業の立ち遅れが目立ってきた。
 以上の問題点に基づいて、各地域で従来の米殼重点の農業生産を、適地、適産農業に転換させるための総合施策を実施するということが、この特別助成事業のねらいである。
 久万町の場合、特別助成事業が実施され始めたころは、まだ合併が行われておらず、旧川瀬村が県下で初の指定を受け、三二年度より事業を実施した。久万地区、父二峰地区は、合併後の三五年より二か年で同事業を実施した。
 事業内容は表のごとくであるが、この事業を計画するに当たって、各町村に推進協議会を設け、小集落で将来の農林業振興について話し合いをもち、それらの集約として、各町村の振興計画を作成するという段取りになっていたため、町役場の職員が毎夜のように小集落を回って助言・指導をした。
 この時、作成した農林業振興計画は、いわゆる、積み上げ方式による地域農林業開発計画の処女作ともいうべきものである。それは、各町村ごとに小冊子ができたほどの、実に細かく綿密なもので、あらゆる事項が網羅されている。
 旧川瀬村の事業完了の翌年、すなわち、三三年四月には会計検査院の検査があった。補助事業の経理及び現物、工事出来高のきびしい検査が実施された。この時の検査官が、全国にその名をとどろかせた吉田課長であった。
 戦後の補助金行政は、このころまでゆがみを生じていて、かつまた工事も粗漏なものが多かったといわれてきたが、会計検査のきびしい追究によって、新しい転期を迎えることになった。
 ともあれ、表のように、総事業費の一一二〇余万円、補助金の四七〇余万円を施設を中心として全町に配分し、総花的に実施したわけであり、その事業そのものを大きく評価することはできないが、増産主義の戦後の農政が、一つの転換をみたという点では見逃せない問題である。

久万町農山漁村振興特別助成事業実績

久万町農山漁村振興特別助成事業実績