データベース『えひめの記憶』
久万町誌
一 藩政時代
上浮穴郡は、古くは浮穴郡に含まれていた。明治一一年の郡区町村編成法の施行により、明治一三年五月、上浮穴郡と下浮穴郡に分けられた。
浮穴郡の名が、古文書にはじめてみえるのは、天平一九年(七四七)の「法隆寺流記資材帳」であり、浮穴郡に荘園一か所があったことが書かれている。
九三〇年代にできた「和名抄」によると、当時伊予国は一四郡七二郷(余戸四)あり、そのうち浮穴郡には、井門(いど)・拝志(はやし)・荏原(えばら)・出部(いずべ)の四郷が、その下にあったとされている。
これらの四郷が、現在のどの地にあたるかは多少異論もあるが、だいたい次の地域であるといわれている。
井門郷 松山市森松、石井地区
拝志郷 重信町のもと拝志村地区
荏原郷 久谷村地区
出部郷 砥部町付近
これによると、現在の上浮穴郡にあたる郷名のところはない。
「和名抄」に郷名のないのは、上浮穴郡と南宇和郡だけである。古代の郡・郷は、戸を支配し、無人の土地を含まなかったから、今から一、〇〇〇年以前の上浮穴の地は、まだじゅうぶん開拓されておらず、あまり人が住んでいなかったのではなかろうか。
その後、時代がくだってくると仁淀川上流の久万山地区は、「伊予国浮穴郡荏原郷久万山の庄(又は、熊の庄)」などと呼ばれていたことから、荏原郷に含まれていたものであろうと思われる。したがって、古代の浮穴郡は、今日は郡名のない下浮穴郡の地域をさすものと考えられる。
この地は、戦国時代道後湯築城主河野氏の支配下にあり、明神大除城主大野安芸守直家・利直・山城守直昌三代の領分であったが、河野氏滅亡とともに、大野直昌も安芸国竹原に落ち、小早川隆景の支配下に移った。
その後、仁淀川上流の久万山地区は、福島正則、小川祐忠、加藤嘉明、蒲生忠知と領主の移動があって、寛永一二年(一六三五)松平定行の松山領となった。また、肱川上流の小田地区は、戸田勝隆・藤堂高虎・富田知信・脇坂安治の治政を経て、元和三年(一六一七)加藤貞泰の大洲領となって明治に及んだ。
松山藩の仁淀川上流、久万山分と呼ばれた地域の村と、明治四年廃藩置県が行われた時の村をくらべてみると、前頁表のとおりである。
これでみると、二〇〇余年間に四か村が増加していることがわかる。この例からみて明治初年の各村は、江戸時代の初期には、既にほとんど存在していたものと考えられる。
藩政時代の浮穴郡は、石高三万五六五六石六斗一升一合で、その土地は、次のように分けられていた。
二二、一二〇石三斗四升一合 松山領 四三か村
内、一四、八三八石七斗一升四合 里分 一七か村
七、二八九石七斗二升七合 久万 山分 二六か村
一三、五三六石二斗七升 大洲領 新谷領 五六か村
これを、元禄一三年(一七〇〇)の元禄村高帳から取り出してみると、上表のようになっている。
ここで気のつくことは、仁淀川水系と肱川水系に二分されている上浮穴郡で、仁淀川水系の久万山分に属する野尻村が二つに分かれて、上野尻村は松山領、下野尻村(あせぶ谷)は大洲領となり、これにつづく露峰村、二名村、父野川村がともに大洲領に属していることである。
この野尻村が、二つに分割されて松山領と大洲領になっていることについては、「大洲旧記」に、「松山領内境に野尻村という有、久万町庄屋支配、此方はむかしより露峰村庄屋付村也、御領分けの節六万石打合の所にて、一村を分け双方に付云々」と記されている。つまり、大洲藩六万石の領地を取ってくると、小田から久万の父野川・二名・露峰にかかり、なお不足するので野尻村を分けて取ったというのである。
しかし、これは加藤氏の大洲統治に始まるものではない、天正年間戸田勝隆が大洲にいたとき、そのころいた戸田九人衆と呼ばれる人々は、次のような知行を与えられたと「久万山小手鑑」に書かれている。
「一、上家の時分野尻村の高弐百石にて侯、上家以後御領分野沢百六拾七石罷成候意趣は、戸田民部正殿に九人衆と申す御預り人有之由、其知行付
五千石 安 見 左 近 三千石 真部 五郎兵衛
二千石 戸田五郎左衛門 二千石 戸田大郎左衛門
二千石 戸田 又左衛門 千 石 滝山太郎左衛門
千 石 佐藤 伝左衛門 千 石 田 島 兵 助
千 石 山 中 織 部
〆 一万八千石
内 六千石 北浮穴にて渡す。 六千石 桑村にて渡す。
六千石 小田にて渡す。
小田の内(中略)
右拾九ヵ村を小田五千石と惣名を申候、右拾九ヵ村の高四千八百拾二石余有之、其不足に久万山之内より、六百四十石二名村・百八十石父野川村・二百六十石露峰村・三十三石野尻村之内より馬酔木谷(下野尻)と申所分る。
右の時野尻村三十三石分け百六十七石に成る。先規者は二名・露峰・父野川も久万山の内也。」
これで、野尻村が二つに分割されたこと、父野川・二名・露峰の三か村も、本来久万山分であったことがわかる。
藩政時代、松山藩久万山六〇〇〇石と呼ばれた地域は、今の下野尻・父野川・二名・露峰の大洲領を除く上浮穴郡全域と、温泉郡久谷村の久谷・窪野を加えた二六か村であった。実際の石高は、七三〇〇石余りであったといわれている。
久谷・窪野の二か村を、久万山分に加えていることは地形からみて不自然であるが、当時藩役人が、久万山へ御用のため久万・松山間を往来するとき、三坂峠の途中にある関係で、休息その他の便宜上、山分に入れることが都合がよかったものと考えられる。しかし、久谷・窪野の二村にとっては不便であったらしく、元禄三年(一六九〇)里分に組み入れられた。そのときの記録によると、
「元禄三年一二月二〇日、山里役人月番小右衛門方へ寄合、久谷、窪野両村久万山之内に而只今有来候得共、里分へ入申候様にと被仰付相談相究・里分へ入申候則御代官様より御書出遣連何も写取申候、下里分へ詰向後、久万山へ手代衆御上り下り時分御代官御登山之折柄も、井門より村順に送り申筈相究申候。」
とある。これも、三五年後の享保九年(一七二四)再び久万山に組み入れられて明治にいたったが、明治七年、大小区画の改正により分離している。