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久万町誌

2 愛媛県久万庁舎

 久万山代官の出先機関であった元締と、大庄屋の役所であった久万会所は、久万町村札の辻(伊予銀行久万支店裏・現在の町立病院長住宅・久万町役場移転図①)にあって、代官所と村との中間的な位置を占めていた。つまり、各村から出仕した庄屋が、改庄屋・大割方・筆用方・月番などの役を分担し、それぞれの役職によって仕事をなし、また、各村への伝達やさしずも行っていた。
 この会所は、明治維新後大区の会所となり、取締番人(警察の前身の)屯所に使用されたりなどしていたが、明治一一年、郡政がしかれて浮穴郡が二分され、下浮穴郡と上浮穴郡とになったために、地方自治体である郡役所が設けられ、会所という名前が完全に消えていった。これより上浮穴郡役所という名称が使われるようになったのである。
 地方自治体である上浮穴郡には、郡としての資産はなく、したがって、新しく庁舎を建築することはできなかった。ところが、上浮穴凶荒予備組合が、その当時建築の必要に迫られていた郡役所・税務所・登記所の三役所に対して、住安町(久万町役場移転図②)に庁舎を建築して貸与した。このため住安町に三役所がそろって出来上がり、事務を執ることができるようになった。中でも郡役所は、木造二階建てと、木造一階建ての二棟からなる延ベ一四一・七五坪の実に堂々たるものであった。裏の一階建ては郡長室・大事務室・使丁部屋・書庫などがあり、表正面の二階建て階上に会議室・階下には応接室・町村会事務局・凶荒予備組合室があった。大事務室は、一課(庶務・兵事)、二課(学務)、三課(産業・土木)、四課(会計・税務)の四部門に分けられていた。こういった施設で、大正一五年に、郡役所が廃止になるまでの四八年間の郡政を一三代の郡長が担当してきたのである。
 その後、自治体としての郡政が廃止となり、都役所の事務を県が直接行うことになった。すなわち、各町村は県に直結したわけである。
 昭和一七年七月、上浮穴郡は地理的にみて遠隔地であり、不便であるため、県の機構改革によって、上浮穴地方事務所が誕生した。
 上浮穴地方事務所は、以前に久万町役場であった建物(住安町の角。昭和四一年の県道西条・久万線の改修により一部は道路となったため取り除いた。久万町役場移転図③)で、県の出先機関として財務・農林・福祉・土木・教育等に関する仕事を始めた。
 昭和三〇年の県の機構改革によって上浮穴地方事務所は廃止された。が、財務・農林・福祉・土木などの事務所は、県の出先機関として残り、同建物で引き続いて仕事をすることになった。また教育事務所は、松山教育事務所久万分室として残った。
 地方事務所の廃止により、郡内の町村はたいへん不便になった。そこで、郡内の町村は県に対して再三再四設置方を陳情してきた。県当局も陳情に耳を傾け、県の出先機関が一堂で仕事ができるように企画し、地元県議の尽力もあって昭和四一年九月に着工して四二年五月に竣工するというスピードで、愛媛県久万庁舎が出来上がり、多年の郡民の要望がかなえられたわけである。
 新設した愛媛県久万庁舎の概要は次のとおりである。

愛媛県久万庁舎のすがた

愛媛県久万庁舎のすがた