データベース『えひめの記憶』
久万町誌
2 生活保護
生活困窮者のための、「恤救規則」(明治七年大政官達一六二号)が、後に救護法(昭和四年)となり、市町村長がこれの実施機関となり救護費は国・県・町村の三者が分担した。救護の対象となるものは、極貧独身の老衰者・廃疾者・病人及び幼年の者で、労働能力のある者、扶養能力のある扶養義務者が貧困者の親族の中にある場合は除外され極度に制限が加えられた。更に、関連するものとして昭和一二年には、軍事扶助法と母子保護法、昭和一六年には医療保護法、昭和一七年には戦時災害保護法等が次々と制定された。昭和二一年占領軍は公的扶助に関する覚書で、
① 生活困窮者の保護は国家責任
② この責任を国家以外のものに転嫁してはならない。
③ 困窮者保護は無差別平等
④ 救護支給金額は、困窮防止に必要かつじゅうぶんなものでなければならない。
と四原則を示した。
これが現在の生活保護法の基となり、困窮者対策を国が行うことをはっきりさせたものである。
昭和二一年四月一日、政府は、生活困窮者緊急生活援護要綱を決定し、わが国保護史上で大きくとりあげている。生活保護法は、同年九月九日公布されたのである。現在の生活保護法は、基本原理を
① 生活権保障……すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利をもつということが限拠であり、国の責任において行われ、およそ生活に困窮するすべての国民を対象とするという一般扶助主義に立つこと、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、最低限度の生活保障、すなわち自立を助長するゆたかさを持つものとしている。
② 保護請求権平等保障……すべての国民は、この法律に定める要件を満す限り、無差別平等に請求する権利を有するものである。
③ 他法優先……現在、各種階層に適心する多くの法律があるが、生活保護法以外の法律で困窮者扶助を定めるものがあれば、生活保護法による保護は行わないとするものである。
このような経過を経て、生活保護法は日本国憲法第二五条の「国民は健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」の規定する理念に基づき、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じて必要な保護を行い、その最低限度の生活を保護するとともに、その自立を助長することを目的としている。そして従来の公的救済制度はあったが、慈恵的救済の制度であったにすぎなかった。しかし、今日の生活保護法は、保護を国民の権利として認め、国がその責任において生活に困窮するすべての国民に対して、健康で文化的な最低限度の生活を保障するものである。したがってその基準は多様な日常生活に対応するために、生活扶助をはじめとし、住宅・教育・医療・出産・生業・葬祭の七つの扶助に分かれており、さらに各種の加算制度があり、より細かな需要に対応できるように設定されている。
保護の実施状況は、久万町では昭和六〇年度は一一九世帯、二〇九人で人口に対する比は二四・三一%と国・県の平均よりも低く、保護率も年々減少しているが、高齢者世帯の率が多くなっている。