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久万町誌

一 藩政時代

 藩政時代久万地方の庶民に対する教育がどのように行われたのか詳細な事は分からない。大宝寺の門前町や四国遍路道の沿道、旧土佐街道の沿線においては、そこを往来する人々から受ける文化的刺激は大きかったと推察される。歴史の項で詳述されるが、一七四〇年当時久万地方でも俳人が活躍していた(俳書 霜夜塚)ことから、教育文化の程度は非常に高いものがあったことは明らかである。当時の教育機関については明らかではないが幕末から明治初年ごろ久万町にあった寺子屋は下表(昭和一三年愛媛県教育会発行「愛媛県教育史・前篇」より抜粋)のようであった。
 寺子屋でどのような教材を用いたか明碓ではないが、学校百年史(文部省発行)に次のように記述されている。
   「寺子屋は、藩校(各藩で設立した学校)のように東洋の古典(四書五経)によって高尚な学問を授けるものではなく、庶民の日常生活に必要な実用的・初歩的な教育を行う施設であった。寺子屋の学習の大部分は「手習」であり、それに「読物」が加わった。………寺子屋の手習は、まず「いろは」・数字などから始め、十干・十二支、方角、町名、村名、名頭、国尽などを学んだ、初めは師匠が書いて与えた「手本」を見ながら書きならったが初歩の手習か終わると、次には「往来物」などを学んだ。」
 往来物には多くの種類が残されているが、その中で、実語教(鎌倉時代の作)例文=山高きが故に貴からず、樹有るを以って貴しとなす。とか、童子教(鎌倉時代の作)例文=弟子七尺去って師の影を踏むべからず、等のものが中心であった。寺子屋によっては「そろばん」を指導した所もあった。当時のそろばんは、梁上二珠、梁下五珠(現在も中華人民共和国で使用されている)であった。算法は、京都の人吉田光由が寛永四年(一六二七)に著わした数学書「塵劫記」がもととなっており乗除については特別な算法でなかなか難かしかった。
 この時代に通俗教育というものがあった。道学者と称するものがおよそ年一回地方を巡り儒学と忠臣節婦の実話を説き、いわゆる道話を講演して道義を鼓吹した。松山の鴻儒近藤元脩の父平角が法然寺において道話を講じ、社会教化に資したという。
 明治初年、久万地方の教育に大きな影響を与えた斉院敬和については、人物の章を参照されたい。

久万町における寺子屋(愛媛県教育史による)

久万町における寺子屋(愛媛県教育史による)