データベース『えひめの記憶』
久万町誌
2 久万地区
久万小学校 明治二〇年(一八八七)久万簡易小学校を久万町字桂町三一二番地第一に設置した。同二五年、久万簡易小学校を久万尋常小学校と改称した。同三七年四月一日、西明神尋常小学校入野分教場が開校したので、この地域からの通学全児童が転学した。
同四〇年、野尻尋常小学校(上野尻山本石油店裏にあった)を久万尋常小学校に合併、同四一年 義務教育が六か年に延長され、四月一日より尋常科第五学年の授業を開始した。菅生村、明神村の尋五及び菅生中野村の全児童の委託授業を始めた。
同四一年一一月二二日、現在の位置に校舎が新築され移転、開校式を挙行した。(久万町大字上野尻字コブタカ、校地八反七畝一二歩、本館一階建一棟、五教室平屋一棟、落札六、二〇〇円、補助五○○円、計六、七○○円)
同四二年四月一日、久万町・明神村・菅生村組合立久万高等小学校を廃止し、久万尋常小学校に高等科を設置し、久万尋常高等小学校と改称第一回入学式を挙行した。
なお、同年同日より菅生村の一部、中野村の尋常科全児童及び明神村、菅生村の高等科の児童の委託授業をすることとなった。同年一〇月一三日、南校舎(四教室平屋建)が新築され、落成式を挙行した。総工費三、一八○円。
同四三年四月一日、高等科三年制を廃して二年制とした。
大正一三年二月一一日、菅生村が久万町に合併したため、同年三月三一日、菅生尋常小学校を廃し、久万尋常高等小学校に合併した。
同一三年五月二九日、午前三時、西校舎より出火し、午前五時までに南校舎四教室を全焼。同一四年七月、南校舎八教室二階建てが新築落成した。
昭和二年(一九二七)一二月二八日、講堂兼雨天体操場を新築し、落成式を挙行した。
同四年一二月五日、校地を拡張し、北校舎新築、落成式を挙行した。一〇教室二階建。
同五年、旧校舎五教室を払い下げて、運動場を拡張した。三〇〇坪。七月一九日、女子青年その他の寄付によるピアノ(七〇〇円)開き。
同一二年一一月一二日、北校舎東端に二教室増築、落成式挙行。
同一六年四月、国民学校令公布により久万国民学校と改称した。
同一七年九月二一日、暴風雨により南校舎甚大な被害を受ける。二四日、復旧起工式を行う。
同二二年四月、学校教育法施行に伴い、久万小学校と改称した。一二月八日、脱脂粉乳の支給により学校給食を開始する。一二月二四日、PTA発会式を行う。
同二六年一〇月一五日、ルース台風により北校舎屋根スレート南半分剥落、校庭の大欅が倒れる。
同二七年三月末、学校給食用ミルク支給停止のため給食を打ち切る。
同二九年一一月一〇日、視聴覚教育四国大会を開催する。
同三〇年七月一四日、南校舎東側に四教室(普通教室二、家庭教室一、音楽室一)増築落成(五〇八万円)運動場拡張一六〇坪。七月三〇日、グランドピアノ購入(三六・五万円)
同三一年八月七日、プール竣工、落成式及びプール開きを行う。(横一三メートル、たて二五メートル、工費二〇二万円)
同三二年九月、講堂の大修理を行う。
同三三年一一月三日、久万小学校移転開校五○周年記念式典を挙行した。本館前へ尊徳像、郷土愛像を建立する。同月二五日より完全給食を開始する。
同三四年四月、町村合併により美川村仕七川小学校槙谷分校が久万小学校分校となる。児童三三名、教員三名。
同三七年四月、父二峰小学校落合分校が廃止となり、久万小学校に通学することとなった。児童二二名。
同三九年八月、久万小学校PTA、優良PTAとして文部大臣表彰並びに日本PTA全国協議会会長表彰を受ける。
同四〇年三月一日、本館鉄筋コンクリート二階建て新築、落成式を挙行した。(三〇一九万円)
同四○年一一月一一日、学校給食優良校として、文部大臣表彰を受ける。
同四一年九月、講堂を南校舎西側に移転、縦二間拡張、運動場土入れ整地を完了した。
同四二年八月、倉庫新築。時報をチャイムとする。
同四三年三月、全国少年剣道大会水戸大会に出場、第三位入賞。
同四六年八月一日、全国少年剣道練成大会(武道館)優勝。
同四六年八月一六日、プール建設、落成式(一二三三万円)
同四七年三月、南校舎便所、北校舎手洗い二か所を増設した。
同四八年二月、農協共済全国小中学校書道コンクールで学校賞を受ける。
同四九年二月、農協共済全国小中学校書道コンクールで、連続学校賞を受ける。
同五○年一一月五日、愛媛県教育研究大会松山管内大会を開催する。
同五二年三月、体育館の新築工事が完成した。(工費約五五〇〇万円)
同五二年六月二八日、南校舎の取りこわし始まる。同五三年一月一六日久万幼稚園舎新築工事完成、体育館、幼稚園の落成式を行う。
同五三年二月、農協共済全国小中学校書道コンクールにおいて、三回目の学校賞を受ける。
同五四年三月、昭和四〇年四月以来一四年間設置した特殊学級を閉級する。
同五五年三月、全国少年剣道錬成大会でブロック優勝する。
同五六年一月、農協共済全国小中学校書道コンクール二五周年にあたり、団体の部で特別賞を受ける。
同五六年七月二五日、北校舎第一期工事(東半分)起工式を行い、同五七年三月一二日、完成した。
同五七年五月一五日、北校舎第二期工事(西半分)起工式を行う。同年一一月一日、旧北校舎の撤去完了、同年一二月一一日、北校舎(西半分)の完成を祝って落成式を挙行した。
同五八年七月二八日、屋外トイレ完成
同五八年一一月一九日、本館前の「少年少女の像」除幕。移転開校七五周年記念行事を行った。
同五九年六月、本館屋上の修理及びプール修理を行う。同年一一月、北校舎裏に庭園を造る。
同六〇年一〇月、地区別同和教育研究大会を開催。同年、同和教育振興により久万町教育長より感謝状を贈られる。
同六一年八月、本館屋上全面改修。家庭科調理室の改修及び調理台六台新設する。団体保険会でワープロ購入
同六一年一二月五日、昭和六〇、六一年度日本体育学校健康センター委嘱交通安全教育推進地域事業研究発表会を開催する。同事業事務局校として久万町教育長より感謝状を贈られる。
同六二年三月一四日、昭和六一年度上浮穴郡青少年剣道大会において一〇か年連続優勝を遂げ、久万町教育長表彰を受ける。
同六三年三月、フラミンゴ(一輪車)一八台購入。図書室用複柱書架を購入し整備を完了
平成元年一月、テント収納庫を設置する。同年三月、小鳥兎小屋を全面改修。
菅生小学校 明治二〇年、菅生簡易小学校として菅生村字中通り七五番戸に設立された。一学級であった。
同二五年、菅生尋常小学校となった。校舎平屋建、敷地三九八坪、運動場五〇坪。
同三三年、在籍児童が九〇名を超過したので二学級編制となった。
同四一年四月、中野村の児童を久万尋常小学校へ委託した。
同年八月、校舎の大改修を行い二教室にした。
大正一三年三月三一日、久万町と菅生村の合併に伴い、久万尋常高等小学校と統合し廃校となる。
久万高等小学校、明治二〇年、郡立久万高等小学校を久万町字水口三一〇番地に設立した。授業料は町村の等級に準じ、一等 三〇銭、二等二五銭、三等 二〇銭、一戸二人以上出す者はその半額を徴収することとした。
同二五年、新校舎が落成した。同年九月、法改正により廃校。同二六年一月、明神村外一四か町村組合立として、久万高等小学校の校舎及び備品一切を引き受け、全校の生徒を二学級に編制し開校した。併せて寄宿舎も開設した。利用者は二人。同三〇年一〇月、裁縫専攻科を設置した。
同三二年四月、生徒増加のため、久万尋常小学校の二階を借り、二学年を収容して授業を行った。
同三二年五月、従前の組合を解散し、明神村、久万町、菅生村、川瀬村、杣川村、父二峰村の六か村をもって、組合を新たに組織し経営することとなった。
同三五年四月、川瀬村分離のため、久万町、明神村、菅生村、父二峰村、杣川村の五か町村の組合立となり、この年より授業料は三〇銭となった。
同四一年四月、法改正のため、久万尋常小学校に五年生を収容したので、久万高等小学校は二か年となり、旧制高二、新制高一・高二の三個学年をもって編成した。
同四二年四月、尋常小学校に高等科併設となり、久万尋常小学校が久万尋常高等小学校となったため高等小学校は廃校となる。
久万高等小学校歴代校長
初代 乃万源三郎 二代 植松山三郎 三代 柴田熊太郎
四代 田中 安惇 五代 玉井 吉納 六代 田中 賢孝
七代 山本 百恵 八代 玉井明太郎 九代 大野鬼千三
一〇代 豊嶋保太郎 一一代 丹下 直樹 一二代 菅 正一
一三代 鶴原万寿芙