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面河村誌

五 太平洋戦争

  天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祖ヲ践メル吾カ大日本帝国天皇ハ明ラカニ忠誠勇武ナル汝有衆二示ス
  朕茲ニ米国及ヒ英国ニ対シ戦ヲ宣ス……………………(宣戦の詔書)
 昭和十六年(一九四一)十二月八日、日本政府はアメリカ・イギリス両国に対して宣戦を布告した。
 日本海軍は、直ちにハワイ真珠湾のアメリカ軍艦を奇襲攻撃、マレー半島に上陸、破竹の勢いで海に、陸に、また空にと進撃した。
 第一次世界大戦後、世界資本主義は一般的危機といわれる段階に入り、ドイツ(ヒットラー)、イタリア(ムッソリーニ)、日本(東條英機)ではファシズム的な支配が進行した。
 ナチス(国民社会主義)ドイツは、一九三九年ポーランドに侵入、やがてオーストリア、チェコスロバキアの領土を併合、イギリス・フランスは対ドイツ戦に参加したが、フランスはついにドイツの軍門に降り、ヨーロッパ大陸の諸国は、ナチスドイツの支配下に置かれた。
 アジアにおいて日本軍は、日中戦争の処理に苦しんでいたが、ドイツの成功に便乗し一九四〇年(昭和十五年)日独伊三国同盟を結び、日中戦争もしだいに英独戦争との関連を強めた。
 日本にとって米英に対する宣戦は、満州事変から日華事変に至るこれまでの戦争の総仕上げともいえる日本国家の運命をかけた大きな博打であった。日本軍は緒戦の戦いを有利に展開し、インド洋から珊瑚海に至る南太平洋一帯を占領した。
 軍国主義日本のアジア政策の基本的考え方、これを大東亜共栄圏構想という。つまりアジアはヨーロッパその他の地域から経済的に離れ、独りで自給自足経済を行って繁栄できる、というものである。しかしながら日本は、アジア各地の政治・軍事・文化の独立を奪い、略奪を強行した。
 昭和十六年十二月香港全島占領、同十七年一月フィリピン、マニラ占領、さらにビルマに進撃、同二月シンガポールを占領した。
 しかし昭和十七年六月、ミッドウェー海戦に敗れ、アメリカの反攻が始まり、昭和十九年、インパール作戦の失敗、サイパン、グアムの日本軍全滅、ついに同年十月、米機動部隊が沖縄の攻撃を開始した。そして同年十一月、B29米空軍爆撃機の編隊が、初めて日本の首都東京を空襲、日本全土にわたり空襲を繰り返した。
 昭和二十年七月二十六日午後十一時ごろから、同二十七日午前一時ごろに至る間、B29六〇機が約二時間にわたり松山市を爆撃、ついに市街は焦土と化した。面河村渋草八幡神社の社殿も、油脂焼夷弾の直撃を受け全焼した。
 枢軸国であるイタリアは昭和十八年(一九四三)九月に、さしものドイツも、昭和二十年(一九四五)五月、連合国軍に無条件降伏した。
 ソビエトの参戦と原子爆弾の投下(広島・長崎)で、昭和二十年八月十四日、日本はついにポツダム宣言を受諾した。日本は刀折れ、矢尽き、無条件降伏を行った。実に昭和二十年(一九四五)八月十五日のことである。
 昭和二十年八月十四日、陸海空軍の大元帥でもある天皇は、太平洋戦争終結の聖断を下し詔書を公布した。
  朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲二忠良ナタ爾臣民二告ク
  朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スタ旨通告セシメタリ(中略)
  臣民ニシテ戦陣ニ死シ戦域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ思ヲ致セハ五内為ニ炸ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スタ所ナリ……(終戦の詔書)
 この戦争を第二次世界大戦ともいい、日・独・伊枢軸国に対して宣戦した国は、米・英・ソ・中国ほか四五か国、これは人類の経験した最大の戦争で、戦いによる直接、間接の生命・財産などの損害は、測り知れないほど大きなものであった。
 昭和二十年八月三十日、日本占領連合軍最高司令官マッカーサー元帥(米国)は、コーンパイプをくわえて神奈川県厚木飛行場に進駐、六年間にわたり日本は彼の支配下に置かれた。
 開戦以来、面河村からこの戦争に召集された兵士は、昭和十七年一六名、同十八年二五名、同十九年七三名、同二十年一〇二名、合計二一六名である。昭和六年の満州事変以来の召集兵士は、実に四八六名、しかもこれに現役入隊中の兵士を含めると驚くべき数である。成年男子のほとんどが戦争に参加している。そのうちの一八四名の兵士は、アジア大陸、南太平洋諸島で砲弾に倒れ病に冒され、バターン半島(フィリピン)死の行進、ジャングルをさまよい、飢に死し、その遺骨さえ帰ってこない者すらある。無言の凱旋というけれども、それは余りにも痛ましい言語に絶する戦争の傷跡である。