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面河村誌

二 消え行く峠道

 面河の本流は、御三戸で久万川と合流して、南へ流れ、やがて仁淀川となり、太平洋へ注ぐ。本来ならば、この川の流れに沿って、行政も経済も北から南へというのが、いわゆる流域圏、地理的条件かも知れぬ。しかし久万山は古くから、行政も経済も「北指向」、道後平野が中心であった。そして現在もそうである。面河村も行政は久万町から松山、経済は道後平野であり、その数々の峠は行政路であり、経済路であった。
 峠とは山道を登りつめ、上りから下りにかかる道をいう。峠を境にして、こちらと、向こうの人々の暮らしのたてかたや、気質がどう違うか、そして人々が峠道を行き来することで、どんなつながりができているか、峠を越えれば、向こうの世界に行けるのだ。
 標高約一〇五〇メートルの旧街道黒森峠、それは明治から大正時代の人々にとって、忘れ得ぬ峠であった。裾之川辺り、いわゆる八町坂の登りロに茶屋があり、番茶一服、二、三銭の駄菓子で渇をいやしやがて黒森峠、久米村の山がじゃましてお城は見えないが、広々とした道後平野、霞む瀬戸内海の島々、白い帯状の重信川の河原が大きく左に曲がって伊予灘へ、山家育ちの人々にとっては、胸のすくような、眺望であった。軍隊への入営もあるいはまた戦場への出征も、これが故山との別れの峠であり、よきにつけ、あしきにつけ、深く心の底に刻み込まれた。
 昭和三十一年(一九五六)黒森線(県道川之内渋草)の開通と、国道三三号線の御三戸から関門の県道(面向線)の開通(昭和十三年・一九三八若山まで開通)、そして自動車が、人も貨物も運ぶ時代の変転と相まって、往年のシルクロード黒森街道は、道も崩壊、草ぼうぼう、明治から大正へ、五十有余年の栄華の歴史にピリオドを打った。
 近江之国小椋郷から入山した木地師、あるいは平家の落人が梅ヶ市・妙へ。露口・妙見・藤左衛門の三兄弟が入山したと伝えられる、周桑へ通ずる相名峠、藩政庄屋時代の交通路であった割石峠、相共に往時の盛況をしのぶよすがさえない。
 大味川本組から竹谷へ通ずるくるすの峠は大味川谷から久万町へ通ずる街道であり、弘法大師開山の四国八十八か所、海岸山岩屋寺参りの峠として旧暦三月二十一日は、年一回のお大師さんの日である。峠にたどりつくと、岩屋寺から鐘の音が春霞の中に響く、平和な時代であった。
 昭和十二年(村長八幡文太郎)竹谷から本組まで、この村へ初めて電気の燈をともしたのも、この峠を越えたたった一本の電線である。
 川ノ子から、あるいは若山から土佐へ通ずる高台越(約一二九〇メートル)は、伊予土佐の国境、伊予の三椏は土佐の製紙(和紙)会社へ、土佐の甘藷は伊予へ、当時は池川町の医師が若山へ往診に来ることも、しばしばであった。
 大味川六人衆の一人菅長助は、土佐椿山の弓の名人一之進の第三の管矢に倒されたがこの一之進も高台越で来たのである。
 製茶の盛んな土佐へ、季節労働者として出かせぎに行ったのも高台越、土佐男と伊予女が結ばれて越したのもこの峠である。
 この高台越も、マイカーの普及とともに人の往来はすべて、東川を経て瓜生野へ、やはりこの峠も世の移り変わりと共に、さびれ果てている。
 その数々の峠、峠は人々の汗と涙がしみつき、心のふるさとである。峠は人を抜きにしては考えられない。人が通らなくては、もはや峠とはいいにくい。いくら見晴らしがよくても、生活路としての実用性が多少残っていなくては、峠としての価値は薄い。
 大成若山線が大正九年村道として認定された。この道、いわゆる大成越、若山、相ノ木と大成は、人の交流盛んで、嫁入り、婿取りも、しばしばであり芸能のゆききも頻繁であった。今、往時の面影なく、その道さえも、さだかでない。
 相ノ峰・本組から下直瀬に通ずるカバケ峠、渋草から相ノ峰・畑野川、久万へ通ずる札ノ峠、それぞれ荒れ果ててはいないけれども使命は、既に終わった感じである。
 若山・峰から高台越に通ずるいわゆるガンサラ道は、若山方面から土佐へ行く重要路であったが、この道はもはや、道そのものの跡かたもない。
 栃原、五味から東川、土佐へ越える道も、現在人の往来は皆無の状態である。
 県道、林道の開通、村道の整備により、マイカーの乗り入れで、険しい峠道は、あっという間に忘れられた存在である。廃道同然の道・峠、しかしながら祖先の人々の生活史を語る上に、これらの道・峠は歴史の中に消え去ったとはいえ、忘却の一語で消し去ることは、余りにも無情ではあるまいか。
 こうした道、峠は生活の一面でもある。