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面河村誌

三 執念の黒森街道

 城下町松山へ年一回か二回、この峠を越して出て行くのが、当時の集落の人々にとって最大の楽しみであった。ショッピングにレジャーに、道後温泉の入湯に、活動写真(映画)見物にとまさしく命の洗濯であった。
 しかしこの街道は物資輸送の重要なる街道で、当時杣川経済界の雄であった重見丈太郎の、この街道に対する執念は筆舌に尽くしがたきものがあった。
 彼は父盛蔵の酒造業の家業を継ぎ、面河電気物産株式会社を設立(大正九年、一九二〇)、割石川の水力を利用して発電、製材業を起こし、村会議員、村長として、行政に、経済に、常に中枢の道を歩んだ。彼の念願は、杣川から松山へ、いわゆる黒森街道の改良整備に日夜心魂を傾けた。
 大正九年(一九二〇)十一月、善通寺第十一師団機動演習第一種演習が、道後平野において実施されると演習参加の同師団第二旅団工兵隊第十一大隊黒沢工兵中尉の指揮する下士官二名、兵卒二九名、乗馬一頭、馬卒一名、駄馬一頭が同年十一月三日来村、土泥川奥橋の上流、ソーダタカ山村道黒森街道を、三日半日をもって、長さ約一〇〇間、高さ約八間、幅約一間半を掘削、陸軍工兵隊を動員、ダイナマイトを使っての突貫工事は、当時の村民にとって、驚異の眼をもって見られた。
 重見丈太郎は、愛媛県立西條中学校卒業後一年志願兵(中等学校卒業以上の学歴ある者、一年間の入隊で将校になる制度)として、松山歩兵第二十二連隊に入営、当時陸軍予備役歩兵中尉であった関係で、陸軍と公私とも知己あり、第十一師団長から暗黙の了解を得たものと察せられる。
 次の書翰は、善通寺連隊区司令部田崎大佐から、重見丈太郎にあてたもので当時の模様を、詳しく伝えたものであるから全文を掲載して参考に供したい。
  拝啓
  秋冷相催候処愈々御清適奉賀候扨兼テ師団ニ於テ補助計画中ノ貴村道路開鑿ノ件本日参謀長殿ヨリ小官迄御話有之候間左記ノ通御承知相成度御通知申上候
  一 貴村道路ハ来ル十一月施行ノ当師団機動演習第一種演習間第二旅団ニ附セラレタル工兵隊ノ一部ヲシテ補助工事ヲ実施セシメララルル予定
  一 人員ハ黒沢中尉以下約三十名ノ予定也
  一 第一種機動演習ハ十一月五日ヨリ四日間ナルモ多分十一月三日四日ノ内ニ川上六面ヨリ貴村ニ到着シ実際ノ工事ハ四日半若クハ五日実施セラルルモ計リ難シ
  一 右工事ノ補助ハ公然之ヲ行フヲ得サルモノニシテ全ク師団ノ厚意ニ依ルモノナルヲ以テ十分其ノ意ヲ体シ決シテ之ヲ他ニ吹聴シ新聞紙ニ掲載セラルル等ノ事無之様充分御注意ヲ望ム
  一 工事ノ名目ハ第一種演習開始ニ付師団長ノ命トシテ貴村地方道路改修セシメラルルト云フ事ニ相成居リ候勿論第一種演習ノ為貴村道路ヲ改修スルノ必要アルニ非ス只本年ハ機動演習ヲ川上松山附近ニ於テ施行セラルルヲ幸トシ無理ニ此名儀ヲ用ヒラレタルニ有之候間呉々モ其辺ノ事情御了察ノ上沈黙ヲ守ラレ度候
  右不取敢御通報迄
    十八日
                           田崎文次
    重見賢兄
                        (以上原文のまま)
 それから六十五有余年、松山往来のその度々、村民のほとんどが通行した通称この「堀割り」も、渋草から県道黒森線の工事の進出につれ利用されることなく、雑木林に埋もれて、訪れる人さえ今はない。
 しかし世にいわれる明治生まれの男の執念で、当時の帝国陸軍まで動かしたこの心意気は永く後世に残したい。