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面河村誌

(二) 植 林

 鎌倉時代前後から寺社の森、民家の周辺に植林が行われていた。しかし当時は造林の目的ではなく、寺社の風格を保つ必要上や、民家の防風のためのものであり、山野に自生している自然苗を採取して造林をしていたにすぎなかった。
 造林地がみられるようになったのは、松山藩主が山奉行を置き、山林の管理・林地の利用並びに水資源確保のために植林を奨励したことによる。藩政時代の植林は全郡的なものではなく、菅生村・畑野川地方が主で、部分的に植林をしていたにすぎない。
 明治の初め、井部栄範が植林の有望性と水源林としての必要性を強調し、造林収支の計算を立て経済性・必要性を認識し、植林を盛んにするようになった。
 本格的な造林は、菅生村から起こり、続いて畑野川、仕七川などの入会地に「三百杉」と銘打って植林するようになり、やがて全郡的に広がっていった。
 藩政時代の植林の苗木は、近畿・中国筋から移入したものが主であったが、高知の梁瀬杉も移入されていた。明治時代になると吉野系の杉が主となり、和歌山や広島方面から買い入れてきて植林をしていた。明治二十年代になると種子を買い入れ、すぎ・ひのきの育苗が本郡で始められるようになった。
 明治三十三年「造林補助金交付規定」が制定されるまでは、造林地の地ごしらえは全面焼きであったので、縦並植えが行われていた。一町歩(一ヘクタール)当たり四〇〇〇本の吉野式林業の縦植え密植が行われていた。全面焼きは、しばしば山火事の原因となっていたので、「造林補助金交付規定」と同時に制定された「森林火入れ許可制度」により筋火切り、地ごしらえが多くなり、植林も横植えとなった。したがって、一町歩当たり三〇〇〇本から三五〇〇本程度の植林となった。
 明治三十年「森林法」が発布され、森林に行政の手が差し伸ばされた。続いて明治三十三年には「愛媛県山林植樹補助金規定」が定められ、保安林・公有林・共有林に対して、人工植栽一町歩当たり、三三円五銭三厘の補助金が交付されるようになり、補助金制度が発足した。
 日清・日露戦争後、木材の必要性と財力蓄積の両面から、戦勝記念造林・在郷軍人基本林・学校基本林などの名称で造林が奨励され、植栽地が多くなってきた。
 明治三十八年「公有林規定」が公布され、部落有林の統一、入りあい地林の整備など、荒廃林野の植林が行われた。特に町村有林は「基本財産造成林として植林が強行されることになり、造林面積は拡大していった。
 大正九年「公有林野官行造林法」が制定されるに至って、町村有林の奥地未利用地の開発が行われた。
 昭和二年「水源涵養造林補助規則」が公布されて、一般私有林の造林に対しても補助の道が講ぜられることになり、私有地の荒廃地や伐採地跡の植林はいっそう盛んになった。
 昭和十五年十月、森林法の改正により、森林組合が設立され、軍用資材としての林産物の調達が始まった。第二次世界大戦中は労働力不足のため、植林は一時中断され、その上に戦災地の復旧に多くの木材が必要となったので過伐となり、裸地面積が増加していった。
 戦後は、「伐採調整資金制度」造林促進のための「造林整備事業資金制度」「造林補助金制度」などの活用により、年々造林面積は拡大していった。
 昭和三十九年、「林業基本法」の制定により林業行政の根本が確立し、林業構造改善事業が始められた。その結果、林道の整備に伴い、林業家の造林意欲が高まってきた。現在では奥地の方まで植林され、いたるところで植栽による大径木を見ることができる。