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柳谷村誌

二 講

 講は、信仰を同じくする人々が結集している講と、経済的機能を発揮することを目的として結集する講の二つがある。信仰的な講については、その性質の違いから、さらに、大きく二つにわけて考えることができる。
 その一つは、寺院・神社・宗派の教祖などが、その信者集団に講名を付けて、代参を伴う崇敬講と、もう一つは、寺社・宗派とは直接結び付きを持たず、したがって、代参を伴わないもので、地域ごとにつくられ、人々の生活に根ざして発達したものであり、地縁的結合の特に強いものである。経済的な講は、社会生活の分化につれ、民間の互助的な金融組織としての頼母子講・無尽講などである。それぞれの講は、年間定期的に当番の家で会合をもち、代参人や、その費用の負担を決めたりした。この会合は、宗教的な会合であるとともに、娯楽的な要素を大いにもち、お互いの親睦を深めるものであった。またこの結合は緊密であって、講の加入が半ば強制的であるものもあり、義務的拘束性をともなうことが多く、宗教的性格とともに、村や組などの団結を強化する働きをもっていた。我が村人の間にこれら多くの講が存在したがその主なるものを見てみる。
 講は、信仰を同じくする人々が結集している講と、経済的機能を発揮することを目的として結集する講の二つがある。信仰的な講については、その性質の違いから、さらに、大きく二つにわけて考えることができる。
 その一つは、寺院・神社・宗派の教祖などが、その信者集団に講名を付けて、代参を伴う崇敬講と、もう一つは、寺社・宗派とは直接結び付きを持たず、したがって、代参を伴わないもので、地域ごとにつくられ、人々の生活に根ざして発達したものであり、地縁的結合の特に強いものである。経済的な講は、社会生活の分化につれ、民間の互助的な金融組織としての頼母子講・無尽講などである。それぞれの講は、年間定期的に当番の家で会合をもち、代参人や、その費用の負担を決めたりした。この会合は、宗教的な会合であるとともに、娯楽的な要素を大いにもち、お互いの親睦を深めるものであった。またこの結合は緊密であって、講の加入が半ば強制的であるものもあり、義務的拘束性をともなうことが多く、宗教的性格とともに、村や組などの団結を強化する働きをもっていた。我が村人の間にこれら多くの講が存在したがその主なるものを見てみる。

 (一) 崇敬講と代参

 伊勢講 

 三重県の伊勢神宮への参拝を目的とする代参講である。昭和一〇年ころまでは、講のある部落が多かったようである。それぞれ講の代参人が二〇人くらい、村の神社の神主が先達となり、旧正月の二〇日ころから参拝に立っていたという。当時としては、実に遠い信仰の旅路であり、また楽しみでもあった。その当時は、伊勢音頭がよく唄われ、またお伊勢踊りが伝えられた。無事帰って来て、講開きをし、四方山のみやげ話に花を咲かせたという。

 金毘羅講

 金毘羅さんと呼ばれる、香川県琴平町の金刀比羅宮への代参講である。伊勢参宮とともに金毘羅参詣は全国的に流行し、我が村でもほとんどの部落に講が組織されていた。森の石松でおなじみであり、全国津々浦々から参詣されたことだろう。金毘羅さんは海神として崇敬される。それぞれの講で春か秋、また二回参拝する部落もあったようである。代参人は二人くらいずつで行き、お礼をうけて帰って講開きをする。参拝を終えた後の楽しみは金毘羅の宿、金毘羅講参りの人々のエピソードは多く、いまなお語り草となっているものもある。

 秋葉講 

 高知県高岡郡仁淀村、隣村にある秋葉神社への代参講である。普通、秋葉さんと呼んでいる。昔は各部落にほとんどあって、代参人二人くらいが参拝して帰って来て講開きをして、家内安全と、火災予防のお礼を配っていた。秋葉サンは、アタゴサンとともに火の神とされているが、アタゴサンは火をつける神で秋葉サンは消す神であるといわれている。秋葉サンの例祭は毎年旧暦の正月一八日に行われ、近隣であり現在では多くの村人が参拝している。

 石鎚講 

 石鎚神社の大祭、石鎚サンと呼ぶ。毎年七月一日が、お山開きで一〇日間、石鎚山頂へ参拝する。昔はほとんどの部落に講があって、先達に従って、面河村から歩き、鎖を繰って上り参拝した。参拝する者は、一週間前から谷にしめ縄をはって水行(水をあびて心身を清める)をし、魚類を食べることを断ち、家族と別居していたところもある。代参人は、お礼・オシバを持って帰り配った。オシバは、竹にはさんで作物の虫よけとして立てた。最近では、交通の便がよくなり、自由に参拝するので講はほとんどなくなった。

 宮島講 

 広島県厳島神社への代参講である。中久保部落ではおそくまで行われており、旧暦の正月二日に代参人二人で参拝に行き、お礼をうけて帰って講開きのお祝いをしていたという。金毘羅講と一年交代で行っていたところもあるという。

 子安講 

 周桑郡小松町にある香園寺に参詣する子安講であり、ここは、子安大師が祀られており、安産のお守りと、妊婦のハラオビをいただいてくる。子供が生れるとお礼に行くのである。

 久礼講 

 高知県順崎にある久礼八幡宮に参拝する代参講である。礼八幡宮は作物の神といわれ、代参人が参拝して帰り、八月一五日に組の者が集って、作祭りと、講開きを一緒に行っている部落もあった。

 (二) 民間信仰的な講

 日待講 

 ヒマチ、オヒマチと呼ばれ、マチは、古くからのことばで、始めの意味は、「オソバニ居ル」ということ、つまり、神の傍に居るとともに夜を明かすこと、それが後になって、日や月の出を待つことだと考えられるようになったのだといわれている。お日待は、どこの部落でも昔は盛んに行われていた。正月には、三日までくらいには、組の当番の家に寄って、神を祭り、一年の無病息災と、五穀豊穣を祈祷した。当番の家で夜を明かし、日の出を拝んで解散した。女はあまり関与せず男だけで煮たきして飲食をするなど、部落ごとに形式は若干異っていたが、どこの部落でも、組境にはお礼を竹にはさんで立てているのが見られた。このお日待も太平洋戦争の終戦後は、信仰心のうすらぎとともに、次第に簡素化され、また行われなくなりつつあり、行われているところにおいても、本来の日待の意味がうすれている。

 愛宕講 

 アタゴサンと呼ばれて、火の神といわれている。当番は、夕方から集まり、ドンブリに盛った御飯と御神酒を供え、お灯りを上げる。組の者が寄って来て飲食をしながらお祭りをする。村内多くの部落にあり、特に大きな火災のあったところでは必ずまつっていた。

 大師講 

 旧暦三月二一日と七月二一日には部落の大師堂に寄って、弘法大師をお祀りし、会食をした。その夜はオコモリといって、お堂で一夜を明かすようなことも行われていた。

 えびす講 

 えびすは、生業を守り、福利をもたらす神として祀った。講では当番が定められて、その年は当たったものがまつり、昔は一〇月二〇日が例祭とされていたようである。例祭には、相撲などを催していたところもあるという。

 (三) 頼母子講

 親頼母子 

 頼母子講は、古くは鎌倉時代から始まり、相互協力から発したといわれる。病人があったり、不幸があったりで借金ができた場合、また家の改築、新築、田畑の購入などで、一時に多額の金銭が必要な場合、一定の人員の人に頼んで加入してもらって、頼母子講をつくる。この頼母子を作った人を親といい、「何某始め頼母子」という名称で呼んだ。親の家に加入者全員が集って頼母子を開く。一番に親がとる。親以外の者を子と呼んだ。
 総代といって、金預りを信用のある顔役から選んだ。二回目から入札などによって、一番多く切った人に落札するが、落札した人は次回から、一定の利子を定めて併せて掛けていかなければならない。その利子分と入札で切った額を足した金額をまだ取ってない者の間で分配する仕組みである。親は利子を払わないかわりに、一回目に酒などを出して接待するとともに、二回目からもなんらかの賄いをする。

 馬頼母子 

 昔は、農家には牛か馬か必ず飼っていて、馬は運搬の主役であった。村内の物資の運搬はほとんど馬であった。道路も狭く、馬の事故が非常に多かったので、相互援助から馬頼母子がつくられていた。馬が一頭、六〇〇円くらいだったのだろうか、三〇ロで一口の掛金が二〇円だった時代もあったという。

 屋根講 

 屋根講あるいは、茅講と呼ばれる頼母子的な講が各部落に組織されていて、茅屋根の葺替えをした。ほとんどの部落に共同の茅場があって、共同でこれを刈り運搬した。一五〇〇束前後で足りる家、二五○○束から三〇〇〇束を必要とする家もあった。葺き終るまでの四、五日間の労力の提供、なわの持ち寄りなどだった。茅屋根の家は必ずこの講に入っていなければならなかった。

 瓦 講 

 昭和初期になって、瓦講がぼつぼつつくられ、瓦屋根への葺替えが行われるようになった。昭和二年には、中久保部落に瓦講が設立され、一八戸が瓦屋根に葺替えされていった。中久保ではこの時、本家新築講と称する頼母子講もつくっていた。これは本家を新築する場合に限って一定の労力を提供するというものである。