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愛南町

中臣戡吉(1879~1974)

 翁は、明治12年3月18日、三島神社宮司中臣常寛氏の次男として生まれた。向学の意気に燃えて上京し、独学力業の道をたどったが、事情が許さず、数年を経ずして城辺郵便局を手伝うこととなった。その後、大正7年39歳の時、村民の衆望をになって第9代の村長に就任し、以後6期18年の長きにわたって村町政を担当し、地方自治の進展につくした。
 その主な業績をふりかえってみると、村長就任早々、城辺商工会を設立して本町商店街繁栄の基礎をつくり、大正11年には共同浴場を建設、同14年には東外海村と共同でと畜場を新設した。また、産業経済の発展はなにより道路の整備が急務であるとして、大正10年に、県道である商店街の幅員拡張工事を村の単独事業で実施し、同11年には、古町三さ路より節崎に至る村道を県道に昇格させて大改修を行った。また、特筆されるべき施策は、教育施設の整備と農業の振興対策で、中でも城辺小学校の講堂建築は、当時、「県下に講堂を備えた小学校は一校もない。」という理由で、なかなか許可にならなかったといういわくつきのもので、その将来を見通した遠大なる構想は高く評価された。さらに、大正12年には、他村にさきがけて町制を実施し、今日の大城辺町の礎を築き町長に就任した。
 この町制実施の年に三化メイ虫の大発生があり、大凶作となり、農家の疲弊は目を覆うものがあったが、先頭にたって防除指導にあたるとともに、稲を晩稲種に切り替えたり、田植時期のくり下げや小作料の引き下げなどを行い、その対応に日夜努力を続けた。さらに井堰や用水路の大改修、不老川や蓮乗寺川の拡張と堤防改修など、その業績は今日の城辺町の基盤となって残され受けつがれている。
 町長辞任後は、諏訪神社宮司として郷土のために奉仕され、昭和49年11月1日永眠された。時に95歳であった。
 これらの業績により、昭和35年に城辺町名誉町民第1号に推たいされ、昭和38年に諏訪神社境内に頌徳碑が建立された。(『続 城辺町誌』より)


中臣戡吉翁頌徳碑①

中臣戡吉翁頌徳碑①

諏訪神社

中臣戡吉翁頌徳碑②

中臣戡吉翁頌徳碑②

諏訪神社