データベース『えひめの記憶』
松山市
内藤鳴雪(1847~1926)
俳人。江戸(現、東京都)の松山藩邸に、藩士の長男として生まれる。幼名は助之進、後に素行(もとゆき)と改める。松山藩の藩校・明教館と昌平黌で学んだ後、明治初期の県内の教育行政に携わり、小・中・師範学校の設立に尽力した。後に、文部省に転任するが強度の神経衰弱となったため退官し、東京で学ぶ松山出身の学生たちの寮である常盤会寄宿舎の監督となる。俳句は、その時寄宿生であった正岡子規の感化ではじめ、古典の素養や漢詩の実作体験を通して、酒脱尚古(俗気がなく、昔風)な格調高い句を得意とした。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)
※ 常盤会寄宿舎の監督は、鳴雪の後、秋山好古が受け継いだ。
【ひめぎんホール横の句碑】
湯上りを 暫く冬の 扇かな
【道後公園入口付近にある句碑】
元日や 一系の天子 不二の山
①子規堂 松山市末広町16-3 |
②子規堂にある鳴雪先生鬚塔 松山市末広町16-3(右は、子規居士髪塔) |
③生誕地にある秋山好古像 松山市歩行町2丁目3-6 |
④ひめぎんホール横の句碑 松山市道後町2丁目12-11(俳句の道) |
⑤道後公園入口付近にある句碑 松山市道後公園 |