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西予市

御手洗千代治(1856~19?)

 伊予宇和郡の4郡中の僻地で、当時は世にも知られていなくて、港湾や魚区としての利もなく、山間で特有の産物もなかった。
 ここに御手洗君が現れて、道路を造り産業を興して当地方が豊になって来たのである。
 御手洗君はもと豊後の人であり、安政3年(1856)7月30日に生まれた。その後、大野郡西原村から安政6年(1859)に父母に従って、宇和郡穴井村に移り住んだのである。さらに穴井村を引き払って四郎谷村に父と移住したが、彼は長男であり名を正親といい、通称千代治といった。
 明治6(1873)年、家督を相続し18歳であった。明治21年(1888)頃、県内各地に桑園を拓いて、養蚕業が盛んになった頃、君は率先して養蚕業に従事して、人々にもそれを奨励したのである。
 明治43年(1910)、四郎谷里道4,520mの工事を完成し、さらにこれを延長して渓筋村の村道として、野村・大洲線の県道編入を成し遂げて運輸交通の便を開いたのである。
 これによって人々は自分の仕事に励み、産業の発展をみて商いの往来を促し、賑わって活気をおびてきた。君は生来賢明で人の道、公の道に尽くす気風が強く、早くから能力もずぐれて地方に設置された名誉職はもちろん、会社や団体は必ず君を推して、その長となられた。
 君はその職に任ぜられたならば、一身の利害をかえりみないで、全知全能力を注いで職務を遂行したのである。
 君は一時巨万の富を築いたけれども、晩年になって破産の身となった。しかし、君はその事に屈することなく、老躯を提して業を安定させるために刻苦精励して怠らなかった。真に君のような人こそ私情をはなれて、世のために尽くした稀に見る人であると思うのである。
 官よりはその功を讃えて、数々の賞を賜った。里人はその徳をしのんで、相諮りその功労を永く後世に伝え、後世の人たちの激励にもしたいと、この碑を造られたのである。
 私は君との旧交があったので、この碑文を書いた。私の不学のため言葉は足りないが、君の業績の大要を録したのである。
題額愛媛県知事従四位勲四等
                              大 場 鑑次郎
   昭和10年(1935)4月15日
                 西園寺 源 透  撰
              村長 名 本 政 一  書

(『野村町誌』より、御手洗千代治君頌功碑 碑文)

※平成20年(2008)4月25日に、「御手洗千代治七十年祭」を記念し、この頌功碑の後ろに新たに石碑が建立された(写真②)。

①御手洗千代治君頌功碑

①御手洗千代治君頌功碑

西予市野村町四郎谷1-864-1(外場バス乗り場付近)

②頌功碑裏の石碑

②頌功碑裏の石碑

西予市野村町四郎谷1-864-1(外場バス乗り場付近)