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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇土佐和紙と伊予との交流の歴史

野村
 製紙技術の交流を通した土佐和紙と伊予との関係について、述べさせていただきます。
 土佐和紙が一つの産業として根付いたのが、1591年です。土佐七色紙、すなわち、1色は顔料で染め、あとの6色は植物染料で染めている7色の紙ですが、その由来は、伊予の新之丞(しんのじょう)という旅人が、土佐で急病に倒れたところを助けてもらった恩返しにといって、安芸三郎左衛門家友(土佐和紙の祖)にその技術を教えたものと言われております。この品が藩主(山内一豊)に献上され、藩が幕府に献上したところ、たいへん評価されまして、最初は非常に手厚い保護がなされて、伸びていったわけでございます。
 また、ちょっと流れは違いますが、(高知県)幡多郡のほうにも、伊予から教えていただいたと思われる十川(とおかわ)泉貨(*1)という紙がありました。今はもうほとんど作られておりませんが、伊予・野村の泉貨紙を考案した兵頭太郎右衛門(泉貨居士というお墓もある)の泉貨の技術が、伝えられたのではないかと思います。
〔*1 十川泉貨のほか、阿波、洲本(淡路)、三好(備後)、吉野の各泉貨にも広がる。〕
 そして現在はどうかと申しますと、実は手漉きの工場は非常に減少しているんですが、それに代わって機械漉きの製紙工場が多くなり、製紙機械でもこの宇摩地区の機械屋さんの技術に支えられておりまして、それがなければどうも成り立っていきにくいという状況でございます。
 たとえば、宇摩地区にはK社とかT社とかいう製紙機械のメーカー、いわゆる抄紙(しょうし)機メーカーがございます。私がかつておりました試験場には、昭和38年に作られたK社のコンビネーション型というマシンが入っておりました。この製紙試験場も古くなりましたので、伊野町に移転することになり、来年の4月オープンをめざして目下工事中ですが、そこにはT社のマシンを入れると聞いております。もちろん民間の製紙会社も、機械技術の面では、支えられておりまして、マシンを持ってきていただいたり、故障があれば来て直していただくというような状況でございます。
 「漉き物」、いわゆる紙はもちろん盛んに交流しております。たとえば、宇摩地区で作られたティッシュペーパーが高知県に送られ、ポケットティッシュとかいろんな形に加工されて出されておりますし、逆に高知県で作られた衛生紙関係が宇摩地区へ送られて、加工されて出ている、そういう状況でございます。
 実は、私どもの紙の博物館には、「現代の和紙」というコーナーがございますが、手漉き和紙のところ、特に加工品の中には、後半(ワークショップ)のパネラーの方の会社で作られている、非常に立派な水引のかかった祝儀袋とかも、展示させていただくと同時に販売をしているという状況でございます。
 このように、土佐と伊予の間では、昔から紙に関する交流が見られ、今も、我々の所の貴重な地場産業であります製紙を、宇摩地区の製紙工場や機械メーカーなどがずいぶんと支えていただいていると考えております。