データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

3 思いがけない発見

渡辺
 先程申しましたように、私、始めは中世史に関心がありましたので、伊予の国を対象としまして、中世の城下町、城下町の始まりのことを、大学を出て間もないころに論文に書いたりしました。大学を出たころに一度、松山にある沖の忽那島に行ったことがあります。そこで『忽那文書』を見て、またすぐ感激してしまうんですが、そこで忽那氏を対象とした論文を書いたこともあります。
 本当に塩の研究をやるきっかけになったのは今治の対岸の竹原で、ここは瀬戸内屈指の製塩地でありまして、しかも資料がたくさん残っているということもあって、竹原市史の編纂に携わった時に、竹原を中心とした塩の研究をしました。
 瀬戸内の塩田の研究とともに、さらに瀬戸内で取れた塩がどこへ販売されていったのかということで、新潟県とか福島県、ずいぶんあちこちと塩を追いかけて回りました。これはちょっと余談になりますが、長野県の大町にある古い塩問屋へ資料を見せてもらいに行った時のことです。そこの主人が、「『竹原が来た時は忙しかった。』と言って親父が話しておりました。」と言うんです。竹原が来たって何のことかなと思っていたら、竹原というのが塩の代名詞になっていたわけです。竹原の塩が大町へたくさん入っていたようです。もうそれを聞いてこれまた感激しまして、随分長野県下を回って、瀬戸内の塩がどういうふうに山国へ入って行ったのかということを調べました。
 また、話を今治へ戻しますが、波止浜ですけれども、天和3年(1683年)という比較的早い時期に塩田が開発されています。当時、製塩技術というのは、そうオープンになっていなかったので、湾に面している波方村の浦役人をしておりました長谷部九兵衛という人が、対岸の竹原へ渡り、労働者、当時は浜子と言ったんですが、浜子に身をやつして竹原で製塩技術を学び、波方村に帰ってきて波止浜塩田を作ったのです。そしてその塩田を中心に、波止浜の町ができたわけです。
 この波止浜の塩田で特記すべきことは田窪藤平の事跡です。藤平は、文政11年(1828年)に波止浜で生まれています。はじめ父と一緒に塩田で働いていましたが、23歳になった時にふと思いついて、瀬戸内の塩田を見て回っております。そして翌年、やはり考えるところがあって、波止浜ではやれないと思ったのか、まず大三島の上浦町に井口(いのくち)という所がございますが、井口塩田の支配大工、労働者の頭として働きまして、そこで最初に塩田の改良をやっております。その後、大三島の口総(くちすぼ)の塩田でも小作をして、塩田改良に努めております。宗方(むなかた)の塩田は、今まで一軒前の塩田で五斗俵で塩を2,700俵しか取れなかったのを、藤平の改良工事によりまして、8,000俵が取れるようになっております。これが評判になりまして、広島県下で我も我もと藤平を招聘(しょうへい)しまして、塩田改良をやっているわけです。後に政府からも招聘されますが、塩田の父と言いますか塩田改良に非常に大きな役割を果たしております。
 彼は波止浜出身ですけれども、最後は、忠海(ただのうみ)、今の竹原市に住みつかれてそこで亡くなられましたので、波止浜ではほとんど知られていないと思うんです。今治から出ておられる優れた人についてはじめに所長さんの御挨拶でも述べられていましたけれども、波止浜からも、日本の塩田を改良した優れた人が出ているわけです。このように、庶民の中にも社会の発展に尽くした人も多いわけで、そういう人を発掘していくということも大切ではないかと思っております。

村上
 今のお話で思い出したんですが。岡山県の野崎関係の塩田ですか。あそこらあたりへも、この地域から相当技術者が入ったような、そういうようなこともお聞きしたことがございますが。

渡辺
 岡山県の児島半島の付け根の宇野という所、橋がかかるまでは高松へ渡る船がありましたが、その先の東野崎塩田にちょっと用があって歩いて山越えをしておりましたら、塩田の端っこに小さな墓地があるわけなんです。墓地というとだいたい、お寺とか山すそとか決まっているのに何だろうと思って、その墓地まで降りて行きますと、驚いたことには、何とその墓には、岡山県の人は一人も名前が刻まれていない。ほとんどが、愛媛県越智郡大島の余所国、亀山、早川といった村々、それから広島県の生口島とか、いわゆる芸予諸島出身の人のお墓なんです。これはどういうことなんだろうかと思って、それをきっかけに野崎家へ行っていろいろ調べておりますと、野崎塩田を築堤する際、莫大な石船、泥船が利用されていますが、ほとんど芸予諸島の人たちのものです。塩田を築調してから後、芸予諸島の人が住みつき、そこの塩田経営を野崎家から任されております。いかに芸予諸島の人々が、塩田築堤技術、あるいは塩田の経営の技術を持っていたかということが分かるわけです。
 それだけではなく広島県をみましても、実はあちらでは伊予もんとか大島もんと言いますが、大島の津倉を中心とした伊予人が、浜子(労働者)として広島県の生口島、瀬戸田とか松永とか三原とか、その他の塩田に働きに来ております。それが労働者から小作人になり、そしてさらに塩田地主になっています。非常に勤勉で、評判がよかったようです。大島の人で、何軒もの塩田を持つ塩田地主になっている人もおります。
 一体、この芸予諸島のこのエネルギーというのは、どこから来たんだろうか。あるいは古くからこの瀬戸内を支配して航海術にたけ、また、いろんな戦術にもたけた海賊衆と、何らかの関連があるのではないかというようなことを考えたりもしたわけです。江戸時代、島の人の活躍は、そういう塩田での活躍だけではなく、他の面でもいろいろ活動しているのではないでしょうか。

村上
 先生のお話の中にお墓が出てきましたけれども。私が調査した中で、お寺の過去帳を見ておりますと、海の字がついた戒名がたびたび出てくるんです。事情をよく調べてみますと、その多くの場合は海難で亡くなった人の戒名なんです。ある例の場合でいきますと、17名の戒名が連続して並んでいるんです。これは、一つの船に乗船していた者が運命を共にしてしまって、そういう形で残っていたんです。
 先程先生から、塩づくりに働いた人の代表として、大島もんだとか、あるいはここの波止浜の田窪藤平さんでしたか、こういう方の名前が浮かび上がってきたわけですけれども、船の関係からいきますと、もう随分古くから海上活動に従事し、不幸な運命に直面した人も、少なからずあったということが確認できたわけです。
 それから、幕末の漂流者ですけれども、四国で漂流した人というとすぐジョン万次郎が出てくるわけですが、愛媛県あたりは全く漂流船員がいないかというと、実は随分たくさん輩出しているわけなんです。松山沖の興居島の亥(伊)之助(いのすけ)なんていう人は、かなりよく知られておりますけれども。この近くの実例でいきますと、芸予諸島一帯から、随分たくさん幕末に漂流して、外国船に救助されてアメリカ合衆国に上陸し、その後、多くの場合は中国を経由して長崎に送り返され、それから各藩に引き渡された。こういうふうな人たちがかなりいるわけなんです。
 その中で一番印象に残っておりますのは、1850年、ちょうどペリーが来航する3年前なのですけれども、その時に漂流してアメリカの商船に救助されて、サンフランシスコに入港した船がありました。その名前は永(栄)力丸という船でした。この永(栄)力丸は乗り組みが17人なわけですけれども、その中の3人は芸予諸島の出身者でした。その一人は岩城島出身で民蔵と言いますし、それから今一人は隣の広島県因島の椋浦という所の亀蔵(亀五郎)と呼ばれた人物です。今一人は生口島、現在は西日光で知られております瀬戸田の出身で名前は仙八(仙太郎)と言った、この3人です。17人のうちに芸予諸島の出身者が3人もいた。これは偶然ではなくて、それだけ多くの人たちがこの地域から輩出され、海上輸送に従事していた証拠ではないだろうかと思うわけです。
 この3人組はその後非常に面白い運命をたどるわけなんですけれども、ちょうどペリーがやって来る直前ですから、いったんは中国の沿岸でペリー艦隊に移されたわけです。当時、ペリーはにわかに艦隊の責任者に任命されたわけで、後から大急ぎで別の軍艦で追って上海に来たわけですが。それまでに、このまま日本に行った場合にはえらいことになるというわけで、一人だけ残して他の者たちは上海で下艦してしまって、一人だけ取り残された日本人船員が、ペリー艦隊内にいたわけです。
 彼は、芸予諸島の出身、伊予ではありませんけれども、生口島出身の仙八という人物です。この仙八は、江戸湾に現れてから幕府の役人にも面接させられるわけですけれども、彼は上陸すると命が危ないというわけで絶対に拒否したわけです。だから、2回にわたって日本にやって来たペリー艦隊には、実は日本人が現実に乗船していたんです。あまり知られていない歴史ですけれども、芸予諸島の仲間たちの一人であった。これは間違いない事実です。彼はその後、アメリカに再度帰ってミッションスクールに入れられたりしますけれども、学問は似合わなかったらしくて、ジョン万次郎ほどその方面は十分身にはつかなかった。ただしキリスト教の洗礼を受け、1860年に横浜にゴーブルという宣教師共々上陸して、その後、この人物は郷里に帰ることもなく、異国人の中で生活して、その生涯を明治何年かに終わっているわけなんです。
 上海で上陸した残りの二人の芸予諸島の仲間たちというのも、それぞれ行動をバラバラにしています。
 その一人因島の亀蔵(亀五郎)の方は、長い間中国の沿岸で待機させられている間に嫌気がさして退役をすることになった一人の海軍のアメリカ水兵に、「もう一度アメリカに行かないか。」と誘われ、またアメリカに行ってしまった。亀蔵(亀五郎)という人は、その後またアメリカの商船に乗って、太平洋を行ったり来たりしているんです。ちょうど1860年、例の日米修好通商条約の調印にあたって幕府から使節が派遣され、彼らが帰途香港に入港した時に、たまたま亀蔵(亀五郎)の船も香港に入る。そこで名乗り出て帰国しているわけですけれども、10年間日本語を使っていないものですから、日本語を忘れはてて、ほとんどポルトガル人と変わらなかった。遣米使節の一行の日記の中には、そのように書き残されています。
 今一人の岩城島の民蔵は、上海で軍艦を降りてから中国の斡旋(あっせん)で長崎に帰って来ました。長崎に帰って来た時には鎖国時代ですから、いろいろ長い取り調べを受けた後、松山藩に引き渡されたわけです。帰国後の彼の動向を調べてみますと、アヘン戦争の話だとか、こういうものを郷土で語り伝えているわけです。
 外国事情がほとんど知られなかったようなこの時代に、いち早く外国事情を知ったこれらの人たち。これは明治維新の夜明けの前に西洋の近代事情を紹介した。こういうふうな事実もこれは残っているわけで、この際に御報告しておきたいと思うんです。
 今、調査研究の過程で非常に思いがけないような事実に直面したようなお話を、先程の野崎塩田などの実例でもお聞きしたわけですけれども、この際に、先生が研究上のエピソードなどで、つけ加えていただけるようなお話はございませんでしょうか。

渡辺
 『太平記』にも、脇屋義助が今治浦に上陸したというようなことが書かれておりますように、今治は確かに港町で、ここへ城が作られ城下町が形成されたということ、そして、この地域のいろいろな人が、それぞれ職業を持って生活しておられたと思うんです。私が対岸の竹原市史を編纂している時に、そんな様子を感じたことがあります。
 忠海という港がございまして、今は竹原市に合併されておりますけれども、ここもやはり江戸時代は割合にぎやかな港で、10軒ぐらいよろず問屋があったそうです。現在、そのうちの2軒がはっきりしておりまして、羽白(はじろ)家の屋号は江戸屋、もう一つの荒木家の屋号は浜胡(はまえびす)屋です。その2軒に、『客船帳』、お客帳とも言いますが、今日で言えば得意先名簿とでもいうようなものだと思うんですが、たまたま残っておりました。それを見ておりますと、文化文政ころから明治20年ぐらいまでに、どこの何という船で船頭がだれで、何を売りに来たとか、そういうことが書いてあるんです。何と今治や波止浜から荷物を積んで売りに来て、そこからまた何か品物を買って帰っているんです。
 江戸屋の方は、今治から来ているのは2隻なんです。波止浜から2隻。伯方島などは5隻来ておりますが。津倉や大浜からも。大浜というのは今治なんでしょうか。それがちゃんと書いてあるわけです。
 浜胡屋を見ますと、これは今治から10隻、波止浜から30隻来ております。何を持って来たかと言うと、文化年間にはミカンを。今治の船頭さんの場合は、町までは出ておりませんが、今治のミカンとかメザシとかサツマイモとか、そんな物を積んで忠海まで持って行っているわけです。そして向こうからは、ゴザとか麻の繊維ですとか、そういうものを買って帰っております。
 わずか2軒残っている問屋の得意先名簿に、それだけ出ているわけで。しかもそれが忠海ということですので、おそらく尾道とかあちこちにも売りに行き、そしてそこで必要なものを買っていた。今治や波止浜の廻船業がかなり盛んであったのではないか。と同時に、島嶼部、伯方島とかその他の島からも、随分と出ていっていた様子が分かるわけです。
 こういうふうに瀬戸内の島嶼部、それから沿岸部の廻船業が非常に盛んであったということが背景になって、早くから北九州の唐津物なども売りに行っていたわけですけれども、その後桜井の碗船などが急速に発展したのではないかと思います。椀船というか、桜井の漆器は研究したことはございませんが、前に近藤福太郎先生が『高縄半島と芸予の島々』という本を、そしてまた『桜井漆器の研究』という非常に立派な本を出しておられます。近藤先生には、遠い親戚筋にあたりますので、子供の時からいろいろ教えていただきました。