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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇本当の「観光」とは

石森
 ついに、四国は3橋時代を迎えました。本州と四国は、3本のルートで結ばれたわけであります。それでは、この砥部町が、本四3橋時代のなかで21世紀も安泰かというと、必ずしもそうとは言えないとわたしは思います。そういうなかで、わたしは、ぜひ砥部町の皆様方にも「観光」という視点を持っていただきたいと考えます。
 特に日本においては、観光というものがあまり良い形では受け止められていないように思えます。しかし、実は観光という言葉は、そう卑下される言葉ではないのです。
 もともとこの観光という言葉の起こりは、中国の『易経(えききょう)』という古典に求められます。その書物の中の「国の光を観(み)る」という言葉から、観光という言葉が起こっています。しかし、ただ国の光を観ると言うと、なんとなく名所旧跡を見て回るように受け止められがちですが、『易経』ではそのようには言っておりません。
 『易経』は、今から2千数百年前に出された古典ですが、その当時の中国は非常に変動の激しい戦国の世でありましたので、そうした時期に書かれた『易経』は、国の指導者が国をどう導くべきかということを書き記した指導書なのです。したがいまして、『易経』の中で「観」の字の項目を見てみますと、次のようなことが書かれています。「一つの国の王、及びその側近である政治家や行政官は、常に旅を心掛けよ。」とある。すなわち、旅をしなさい。旅をして、民のくらしを見なさいと言っています。では、なぜ民のくらしを見なさいと言っているのか。それは、民のくらしこそが、政治家や行政官の仕事の反映であるからです。もし良い政(まつりごと)が行われているならば、民は生き生きと生きることができる。民が生き生きと生きることができるということは、その国が他国に対して威勢光輝、すなわち光を示すことができる。そして、光を示しておれば、他の国は容易にその国を侵略することはできない。これに対して、もし悪い政が行われていて、人々が疲弊しているならば、その国は光を放つことができず他国に容易に侵略される。だから、国を治める人々は常に旅を心掛け、民のくらしを見ることによって、自らの政の在り方を反省し、より良い国づくりに励みなさいと言っているのです。
 したがいまして、観光ということを考える場合、外からの訪問客をいかにすれば数多く受け入れることができるかという観点も確かに重要なのですが、それだけが観光のすべてではありません。今御紹介しました『易経』で言うところの観光とは、例えばここ砥部町の場合ですと、砥部町に住む人たちが、砥部町に住むことに誇りを持って、そこに幸せを見いだすことができるような地域づくりをするということが、実は観光ということの本当の意味なのです。
 地域の光というものは、人工的に何かの施設を作れば、それだけで光が放たれるというものではありません。まさにその地域の人々が、その地域の光そのものを生み出す源となるわけです。そういう意味で、本日、この砥部町でふるさとを見つめ直そうという趣旨の愛媛学セミナーが開かれることは、大きな意味付けがあるのです。
 ところが、今の日本において、日本人の一人一人が自分の住んでいる地域をどれだけ愛しているか。砥部町も、今や人口2万人を超え、新たに砥部町民となられた方も多いでしょう。そうすると、砥部町に対する愛着という視点からすると、2万人すべての方が愛着を持っているでしょうか。一体どれくらいの方が、21世紀の砥部町を自らの力で、自らの責任において、より良くしていこうと考えておられるでしょうか。これは決して砥部町に限らずどこの都道府県、市町村においても大変大事な問題であろうと思います。一人一人の国民が、日本をいかに愛することができるか。一人一人の砥部町民が、いかに砥部町を愛することができるか。この思いから、わたしは、観光という視点の重要性を皆さん方にお話ししているわけです。