データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)にきたつの昔から

 ア いで湯の里へ

 「春風やふね伊豫に寄りて道後の湯」、柳原極堂の句である。その句碑は、道後温泉を訪れる人々を迎えるかのように道後温泉駅前の広場、放生園に建っている(写真3-2-25参照)。
 古い歴史を持つ道後温泉は、古代においては大和朝廷と関係の深い温泉であった。当時、海路によって道後を訪れる場合、熟田津という港に上陸したと考えられる。熟田津の所在については、①山越~吉田説、②和気・堀江説、③古三津説などの諸説があり、現在もまだ確定していないが、温泉から比較的近い地点にあったということは確かであるらしい。古代の海岸線は、今よりもかなり内陸に入っていたと考えられ、道後温泉は海に近い温泉として古代から海上交通と深いかかわりがあったと思われる。
 近世に入ると、元禄15年(1702年)僧曇海(どんかい)が著した『玉の石』(道後に関する最古の観光案内書)に「他国より船路を来る者三津の浜へあがる。道後ゆの町迄(まで)二里(約7.5km)人馬かごあり。(㉒)」とあり、三津浜が道後温泉に来浴する人々に利用された港であったと考えられる。また、堀江の港も「近世初期から川之江や今治、山陽路各地からの道後入湯客の上陸地に利用された(⑮)」らしい。
 近代になると明治21年(1888年)伊予鉄道が三津~三津口(古町)~松山(一時外側と改称)間で鉄道運輸業を開始した。また明治28年(1895年)には道後鉄道が三津口(古町)~道後~一番町間の営業を始めたので、三津浜と道後は列車(いわゆる坊っちゃん列車)で結ばれるようになった。
 現在の状況は松山市観光課の調査による松山市を訪れる観光客の交通機関別利用構成比率から推測することができる。車社会といわれる現在、やはり多いのは貸切りバス・自家用車を利用する人である。次いで船泊の利用となっている。西瀬戸自動車道開通(平成10年度完成予定)後は、現在よりも貸切りバス・自家用車の利用率が高くなることが予想される。そのとき、「ふね伊豫に寄りて」という状況は、どのような変化を見せるであろう。

 イ 『坊っちゃん』に会える

 (ア)『坊っちゃん』のまち

 夏目漱石は明治28年(1895年)4月愛媛県尋常中学校(後の松山中学、現在の松山東高校)の英語教師として赴任した。翌年熊本の第五高等学校に転任、松山滞在はわずか1年であった。その後10年を経た明治39年(1906年)4月俳誌『ホトトギス』に掲載された小説が『坊っちゃん』である。言うまでもなく『坊っちゃん』の舞台は松山であり、その素材も松山滞在中に得られたものであり、登場人物のモデルもいたであろう。しかし、『坊っちゃん』の世界は、あくまでも小説の世界であり、創作なのである。だからこそ、松山の人々にも、自分たちをほめているとは思えない作品『坊っちゃん』が受け入れられたのであろう。松山の人々は『坊っちゃん』を温かく受け入れ、作者夏目漱石を敬愛している。特に正岡子規と深い友情で結ばれていた漱石に親近感を抱いている。もしかすると松山の文学的風土がそうさせているのかもしれない。
 ところで、『坊っちゃん』が発表されてから約90年、今でも愛読者が多く、『坊っちゃん』といえば、すぐ松山を連想する人が多い。その御当地松山では小説『坊っちゃん(㉔)』にかかわるものに「坊っちゃん〇〇」という名称がつけられている。
 「乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。」と表現された「坊っちゃん列車」(写真3-2-26参照)、「おれの這入(はい)った團子(だんご)屋は遊廓(ゆうかく)の入口にあって、大攀(たいへん)うまいと云(い)ふ評判だから、温泉に行った歸(かえ)りがけに一寸(ちょっと)食って見た。」にちなんだ「坊っちゃん団子」、「温泉は三階の新築で上等は浴衣(ゆかた)をかして、流しをつけて八錢(せん)で済(す)む。……おれはいつでも上等へ這入った。」と書き、漱石自身も愛した道後温泉、その本館の3階に設けられた「坊っちゃんの間」(漱石の女婿、松岡譲によって命名された。)などがある。
 「坊っちゃん列車」は「坊っちゃん列車をつくる会」によって昭和52年(1977年)再現され、昭和63年(1988年)5月北条市出身の作家早坂暁の小説「ダウンタウンヒーローズ」の映画(山田洋次監督)のロケで旧国鉄内子線を走っている。昭和29年(1954年)に姿を消した「坊っちゃん列車」への人々の思いが伝わってくる。その他、昭和25年(1950年)漱石文学愛好者たちによって結成された研究グループ「松山坊っちゃん会」、昭和63年(1988年)松山市が設けた「坊っちゃん文学賞」、道後温泉本館建設100周年(平成6年)を記念して道後温泉駅前の放生園に建てられた「からくり時計」(『坊っちゃん』の登場人物の人形が姿を見せる。)など、松山は『坊っちゃん』を愛するまちであり、観光面からいえば、『坊っちゃん』に支えられているまちである。
 「ナモシ」という言葉が広く知られるようになったのも『坊っちゃん』によるところが大きい。「『そりゃ、イナゴぞな、もし』……『なもしと菜飯は違ふぞな、もし』…いつ迄(まで)行ってもなもしを使ふ奴(やつ)だ。」有名な一節である。「ナモシ」とは愛媛県の松山地方(中予)の人々が使う助詞であるが、現在は、ほとんど耳にすることができない。ちなみに、愛媛県ではこの「ナモシ」と同じ系統の「ノモシ」「ノーシ」「ノンシ」が東予地方、「ナシ(ナーシ)」「ナンシ」が宇和島市を中心とする南予地方で使われており、同系統の助詞の使い方にも東・中・南予の地域差がみられる。

 (イ)元祖「坊っちゃん団子」

 **さん(松山市道後湯之町 昭和13年生まれ 57歳)
 松山市発行の『道後温泉(㉒)』には「坊っちゃん団子」の由来についての記述があり、その中で渡部芳澄という人の話が載っている。「今から40年くらい前までは道後の名物はツマミ煎餅(せんべい)にアンコロ団子に甘酒であった。……このアンコロは団子を三つ、餡(あん)をべたづけにして串にさしてあった。これを夏目漱石先生が松山中学の先生時代入湯の時よく食った(中略)串団子屋は今の松ケ枝町の角、煙草屋のすぐ奥の家で、そこが坊っちゃん団子の発祥地です。ここの主人は松原吉五郎という人であったが、今はその子孫の時代で、温泉の二階で売っているのがこの団子です。……」という話である。
 **さんは次のように話している。「松原吉五郎というのは、わたしの家の初代のことだと思います。店は松ヶ枝町、大門の左側、『坊っちゃん』にも書かれている場所にありました。その後2代目が松ヶ枝町に入る角のところに店を出しています。漱石先生がお団子を召し上がったとすれば、この角の方の店ではなく、大門すぐ横の初代の店の方です。お団子はあんを湯にさらすゆざらし団子です。小豆あんだけでつくる団子で皿に盛ったものでした。当時は一間(約1.8m)間口ほどの小さな店だったようです。今のようなお菓子屋ではなく茶店のような店で、たばこなども売ったりしていたようです。屋号は『茶屋又』、大きな茶壷を置いていたといいますからお茶も売っていたのでしょう。漱石先生は度々道後温泉に来ておられ、また甘党だったらしいので、よく食べに来られたのではないかと想像しています。現在の『坊っちゃん団子』を考案し、それに『坊っちゃん団子』と命名したのは2代目です。『坊っちゃん団子』が松山の名物として広く知られるようになったのは戦後です。観光土産品として売られるようになってから多くの菓子店でつくられるようになりました。初代のときは名もない茶店、2代目は努力し、3代目は苦労し、そしてわたしたち4代目は漱石先生のお陰を受けている。時代の流れを感じます。現在わたしどものつくる団子が道後温泉に納められています。昭和41年(1966年)には夏目伸六さん(漱石の子息)が来店され、色紙を残していかれました(写真3-2-27参照)。」**さんは、老舗「つぼや」4代目の夫人であり、味を大切にしながら暖簾(のれん)を守っている御主人を支えている。

 (ウ)よみがえるターナーの松

 **さん(松山市北斉院町 昭和10年生まれ 60歳)
 ターナー島とは、正岡子規が「初汐や松に浪こす四十島」と詠んだ(写真3-2-28参照)松山市の高浜沖に浮かぶ小島、四十島(しじゅうしま)の別名である。ターナー島という呼び名は、もちろん夏目漱石の小説『坊っちゃん』に由来する。漱石は『坊っちゃん(㉔)』の中で、登場人物に「あの松を見給へ、幹が眞直(まっすぐ)で、上が傘(かさ)の様に開いてターナー(イギリスの風景画家)の畫(ゑ)にありそうだね。」、「どうです教頭、是(これ)からあの島をターナー島と名づけ様ぢゃありませんか。」と言わせている。そのターナーの絵にありそうな松(いわゆるターナーの松)も松くい虫の被害にあって昭和52年(1977年)には枯死し、きり倒されてしまった。それに心を痛め、元どおりのターナー島にしようと立ち上がったのが**さん(当時小学校教諭)であった。
 「きっかけは郷土誌の編集に携わったことです。その表紙を四十島にしたのに、すでにその島の松は枯れてしまっている。その寂しさが四十島に松の緑をよみがえらせる研究に取り組む動機となりました。実生や移植を試みた人たちの話も聞き、まず地質調査から始めようと渡ってみると松もなければ草もない砂ぼこりの舞う四十島でした。頂上付近には水をかけるとそれを丸く包み込む、それほど細かい灰のような土が広さ5m²、深さ30cmぐらいあることが分かりました。昭和53年(1978年)2月、まず20本の松の苗を植えました。かつて久万山(上浮穴郡の山)で植林をするとき父から教わったことを思い出しながら、自分なりに工夫して植えたのですが、その際3本だけに鹿沼(かぬま)土(園芸用の土)を使いました。その年は暑い日が続きましたが、水やりに行きませんでした。自分なりに工夫した植え方をこの日照りに裁いてもらおうと思ったからです。1年後、再び苗木を持って島に渡ってみると、20本の中で鹿沼土を使った3本だけが枯れていなかったのです。活着しているとは言えないが、枯れているともいえない。生命はある。よしこれだったら夏場に少し手を加えてやれば新芽も出るだろうと思い、その後は鹿沼土を使って移植を続け、手を加えていきました。鹿沼土には保水力があるのです。草も育てました。草が生え、木も育ってくると保水状態がよくなります。松の新芽も早く出るようになりました。合計100本ぐらい植えて50本ぐらい活着しました。活着の割合は年々よくなりました。台風や渇水によって波にさらわれたり、枯れたりもしましたが、ありがたいことに大勢には影響ありません。現在20本ぐらい育っていますが、今ではむしろ本数を少なくする方です。昔の四十島の写真を見ても松は5、6本、このまま20本生えていると共倒れの危険もあります。
 最初、島に渡る手段としては漁船しかありませんでした。島に渡してくれる漁師さんに『先生、みんながやったんじゃがな。先生がしたけんててうまくいくわけないわい。』と言われたこともありました。ゴムボートを購入して島に渡ったこともあります。ところが山育ちのわたしはこぐのが下手、ボートには必要なものを載せ、子供まで乗せて(自然に親しませたかった)、潮のかげんを見ながら、ボートの綱を引っぱって泳いで渡ったこともありました。その後3、4年して釣り客を渡す渡し船ができたので楽になりました。
 四十島にこだわったのは、子供たちのふるさとを大事にしたいという思い、子供たちに科学するとはどういうことか具体的に示してやりたいという思い、この二つの思いからです。『松のことは松に習え ターナー島とこの5年』という実践記録も作成しましたが、わたしは、自分の科学する力、実践力をこの四十島に裁いてもらいたいと思ったのです。わたしに科学する力があるならば、松は必ず根付くであろう、そう信じて18年間取り組んできました。松はわたしに味方してくれたようです。今一番大きい松(アカマツ)は5mを越えました。根周りは80cmぐらいです。この松を『マドンナの松』と名付けました。『2代目ターナーの松』として育てている松もあり、一本一本に名前をつけています。わたしにとって四十島の松は自分の子供みたいなものです。」**さんの努力で四十島の松の緑はよみがえった(写真3-2-31参照)。さらに**さんは「ターナー島を守る会」を結成し(現在会員は12名)、四十島に渡る釣り客にパンフレットを配るなど島の保護にも努めている。

写真3-2-25 柳原極堂の句碑

写真3-2-25 柳原極堂の句碑

平成7年10月撮影

写真3-2-26 伊予鉄道1号機関車(坊っちゃん列車)

写真3-2-26 伊予鉄道1号機関車(坊っちゃん列車)

昭和42年(1967年)、日本国有鉄道から、わが国現存最古の軽便鉄道機関車として鉄道記念物に指定され、また昭和43年、県の有形文化財に指定された。平成7年10月 梅津寺遊園地にて撮影

写真3-2-27 夏目伸六の色紙

写真3-2-27 夏目伸六の色紙

道後の「坊っちゃん」団子の店「つぼや」へ始めて寄った記念として 昭和41年9月19日 夏目伸六。平成7年6月撮影

写真3-2-28 「初汐や」の句碑

写真3-2-28 「初汐や」の句碑

所在地 松山市高浜1丁目 恵美須神社。平成7年10月撮影

写真3-2-31 緑のよみがえった四十島(ターナー島)

写真3-2-31 緑のよみがえった四十島(ターナー島)

平成7年10月撮影